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少し国語頭のリハビリ

2012年01月07日 | 雑記帳
 年初め恒例の国語研修会に参加した。
 所属している会に発表者が割り当たっており,本当に珍しく中学校の分科会にすることにした。
 
 ふだんから「国語頭」になっていないので,専門の教員が集うこうした会では,ああそうだったと思い出すこと,こういう言い方もあるのかあと感心することなどあり,いつもながらの正月惚けには効き目がある。

 今回メモした言葉の中に,こんな言い方があった。

 つけたい力と用いたい力

(これを生徒の側からみるか教師の側からみるか,一つ大きな問題があり実際の授業にかかわってくる。しかしそこはひとまず置く。)
 頻繁に登場する「つけたい力」はさておき「用いたい力」である。 

 既習の力を意識させて,新規の教材に取り組ませる方法は,自分も積極的にかかわってきた。しかし,実際なかなか浸透してはいないのが実情かもしれない。

 算数などではよく「この問題は,どんな考え方や方法で解けると思うか」などという問いかけがある。国語でもこれに似た問いかけはあろうが,算数ほど明確ではないし,しっかり確立されていない気がする。
 とにかく,子どもが持っている力を用いさせる,使わせるという意識を自覚的に教師が持つこと。
 これはもしかしたら,授業のねらいがどうのこうのより大事なことになるかもしれない,とやや暴言めいた考えも浮かぶ。

 「つけたい力」を連呼するより,子どもが自分の力を用いたことを誉め,一歩先を目指せるように後押しする,そんな授業である。


 もう一つ,男性教諭が何気なく喋ったこの一言。

 一見遠まわりのようなことを問う

 文学的文章の読解についての協議において,自分の実践例を語ったときに,生徒のイメージがわくようにあれこれ試しているというような話の中に出てきた。
 結果的に功を奏した?ことがあり,そうした表現になったのかもしれないが,たぶん教師はそれを「たまたま」ではなく,いつも心がけていられるようにしなくてはいけないのだと思う。

 教材研究の深さと言ってしまえばそれまでであり,またそれが全てなのかもしれない。
 しかしそれしかアプローチがないのであれば,またそれも寂しい。

 「一見遠まわり」が出来るには,様々なことに興味を示す好奇心や,別世界を覗こうとする積極性,物事を多面的にとらえ結びつける習慣など,いくつかの要素が必要になってくる。
 そのためには,きっと仕事以外の時間の充実度も深くかかわるのではないか…などと安直な結論を出してしまった。
 

 最後に苦言。
 収穫のあった研修会ではあったが,あまりにも変わらないその運営方法はいかがなものか,…なかなか首がもとに戻らない。