すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

1月17日夜に「えっ,まだ」

2012年01月17日 | 雑記帳
 先日親しい方々と小宴をもったときに、何の拍子か1月17日の話題になった。

 17年前の1月17日。その日は三学期の始業式だった。
 朝のテレビニュースで神戸を中心に大きな地震が起きたことは知っていたが、始業式の慌ただしさに一日中紛れて実際にはあまり心に留めることがなかった。

 その夜、本当に久しぶりに職場で懇親会が持たれた。
 前年夏に現職であった校長が突然死去し、現場は少し混乱した時期を過ごした。教務主任を務めていた自分は葬儀の進行をするという、それまでもそしておそらくこれからもない体験もした。
 職員の団結は強まっていったが、やはり年明けまで自重する日々が続いていた。

 そんな経緯があり、その日の会ではしこたま酔っぱらった末に、馴染みの酒場へ新校長を案内していったのだった。
 呂律のあやしい口で焼きそばを注文し、カウンター越しに見上げたちっちゃいテレビ画面。
 現場上空からの中継で燃えている神戸の街が映されていることに、「えっ、まだ」と驚き、酔いがすっと醒めたことを覚えている。

 今から17年前の当時の、関西から遠く離れた地に住む者の、災害に対する認識とはその程度のものだったと思う。「防災教育」という言葉が浸透したのもその後だったはずだ。
 我ながら想像力の欠如を恥ずかしく思う。

 その年は、3月に地下鉄サリン事件が起きた。
 それから半月も経たないうちに東京での研究会(ネットワークか法則化かそのどちらかと思う)に参加した自分だったが、その時に乗った地下鉄の駅構内、車内がまだ余韻を残している雰囲気であったことが忘れられない。現場の緊張感とはこういうものだと感じたことも覚えている。

 そんな95年は個人的にも印象深い年でもある。
 冬休みに「すぷりんぐ~私の国語教室 第1集~」と名づけた個人冊子を作り上げた。もちろん野口芳宏先生からの刺激である。80年代からいくつか雑誌に書かせていただいた原稿などを中心にまとめた。
 4月からの新年度は、初任者もいる職場だったので校内通信に力を入れ、「為(つくる)」と題した教務通信を継続発行できた。教材開発誌や学級経営関係でも、少しずつ執筆させていただいた時期である。それらも翌年、第2集としてまとめた。
 たぶん何か区切りをつけたかった時期なのだと思う。

 しかし、振り返ってみればその頃から徐々に仕事の内容をシフトさせていったわけだが、取り巻く環境の変化を言い訳にしながら、相変わらずぐずぐずしたままだなあと自嘲するしかない。

 17年前のように、夜更けに「えっ、まだ」と気づくようでは、手遅れも甚だしいのだが、あれから何ができて何が叶わなかったか、まだしたいこと、もうやれないことをはっきりさせなくては、とぼんやり考えている。