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物語に支配されない力

2012年01月20日 | 読書
 題名から「ああ,あの事件だな」と思ったし,著者の名前にも惹かれた。

 『37日間漂流船長』(石川拓治 幻冬舎文庫)

 2001年のことというから,あの事件からもう十年以上経ったのか,ひと月以上一人で漂流して助けられたニュースがテレビで頻繁に流れ,飄々?とした容貌,語り口をしていたような印象も記憶に残っている。

 『奇跡のリンゴ』の著者が贈るもうひとつの奇跡の物語

 それが帯に書かれたコピーである。確かに「奇跡」の出来事と言っていいだろう。
 様々な条件…積んであった食物や道具,海流,気象などの自然もあるにはあるが,どう読んでもこの本は船長の武智さん自身そのものの行動に焦点化される。

 「あきらめたから,生きられた」という副題がつけられている。武智さん自身の言葉でもある。なかなか含蓄深い。私が抱いた全体の印象もそれに近いのだろうが,次のようなことであった。

 生きるために,生きる

 悟りとは,このような境地かもしれない


 武智さんは,端的に言ってしまえば「欲」が少ない。
 実はなんとかなるだろうという楽観性が,この漂流を引き起こしたと言えなくもない。しかしその時点の選択は、やはり彼自身の人生観に支えられているのだなと気づく。

 昔、年寄りがよく語った「イノチコンジョウ」という方言?がある。一面では困難な場に立ったときの度胸と言い換えてもいいかもしれない。「腹が据わる」という言い方もある。武智さんの場合に近いものを感ずるが、まだ言い得ていない気がする。

 何かのため、誰かのためと思えば、それは悪い意味ではなくやはりどこかぎらぎらしてしまって、そういう場面にあえば、きっとじたばたしてしまうことだろう。
 ただ生きるため、人間には生きる本能があるため、ただ目の前でできることを淡々としていく…漂流というどうしようもないほど非日常場面が描かれているのだが、考えさせられるのはやはり日常だ。

 さて,著者が記した「はじめに」に印象深い記述がある。
 救出後,一躍有名になった武智さんは,取材や招待によって何度も漂流話をするが,いっこうに流暢にならない。そこが普通と違うことを指摘している。

 何遍同じことを聞かれようと,他の誰かにした同じ話を繰り返すことを嫌う。小首をちょっと傾げ,そのときのことを思い出し思い出ししながら,自分の言葉で訥訥と話す。

 もしかしたら,この在り方が「生きる」ということではないか,と大げさなことを思ってしまった。

 順応,馴致…といった能力が実生活を支えている面はとても大きいが,生存はそれらとまた全く異なる力も必要であることを,深く考えさせられる。

 それは,知らず知らずのうちに作り上げてしまった物語に支配されない力と言っていいかもしれない。それこそが本物の物語を作り出す…ちょっと観念的すぎるか。