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句点にある大事な意味

2012年01月12日 | 読書
 先日読んだ『「教育」の常識・非常識』(安彦忠彦 学文社)のなかに,学校の教育目的について論じられている箇所がある。
 究極的には「人格形成」が目的であることは法に定められた通りであり,それは学校においても間違いないと踏まえながら,著者はこう記していた。

 学校ないし教師の固有の目的は「学力形成」にあります。

 しかし,いつの場合も小説や物語に表される教師は,「学力形成」にあまり関わらず,「人格形成」に関わる者として究極目標に向かって描かれるようだ。

 『せんせい。』(重松清 新潮文庫)

 久しぶりの重松作品である。記録をみても一昨年に『カシオペアの丘で』の上下巻を読んで以来である。
 重松清ほど学校,教師を取り上げる頻度が多い作家はいないだろう。そんなこともあり一時期集中的に読んだ記憶がある。
 それからいつだったろうか教科書に取り上げられた『カレーライス』を野口先生は酷評していたっけ…などと思い出しながら,六つの短編を一気に読み終えた。

 ありきたりと言えばありきたりとも言えるだろうが,登場する教師の個性それも不完全さや欠落的要素が生徒に影響を及ぼすといった括りができるだろう。
 その描き方の手慣れた感は,さすがに重松だなあと思わされた。

 特に心に残るのは「にんじん」である。
 主人公の教師が「にんじん」と秘かに名づけた一人の子ども。有能な先輩教師が育てた素晴らしい学級を引き継ぐが,学級全体の明朗さや有能さを心底から認められない若い教師が,ある一人の男の子を好きになれず,感情のはけ口のように接した話である。

 一個の人間としては有り得る心理であり,行動である。しかしそれが教師として子どもの目の前に立つ者であるとき,その感情の発露は実に怖い。
 人間が他者に持つ好悪の感情は避けられないものだが,教師にとってこれほど怖い毒物はない。多くの教師はその毒物に蓋をしたり,何かに転用したりすることで乗り越える。
 しかし何かのはずみで,それが零れ落ちたとき,償いきれない結果になることも少なくないだろう。

 主人公の教師はそのことに悩み,二十年後の同級会参加に迷うが,結局は足を運んだ。
 そして,「にんじん」と再会する。
 なんと中学教師となった「にんじん」は,当時の自分が受けたことをしっかり覚えていながら,そこから学んだことを語るのだった。
 そして主人公の教師は追い詰められながらも,こう感じた。

 やっと罰してもらえた。

 この感覚をいつまでも持ち続けられたこと,これがその人の教師としての資質だったと結論づけたい気がする。

 教師として子どもと接するのは一回きりであるけれど,人間としてはそういう物語を信ずる心が持っていないと,それはまた寂しい。

 「人格形成」にかかわるのは,教師の一回きりの大事な仕事である。その意味はとても大きい。
 けれど当然ながら全てではないことを,『せんせい。』という題名の「。」が示しているような気がした。