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冗長率のことを冗長に語る

2012年01月22日 | 読書
 「冗長率」という言葉を知った。

 冗長の意味は知っていたが、「率」がつくとなると??である。
 ネット検索でいくつか引っかかるが、言葉の意味を直接表したものはない。

 平田オリザ氏の雑誌連載に登場していて、次のように説明されている。

 一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない言葉が含まれているかを、数値で表したものだ。

 「えーー」「まあ」といった間投詞や、一部の接続詞や繰り返しなど、意味伝達に関わらない言葉の割合ということだ。
 そして、一見無駄で論理的でないそういう言葉が、実は話の上手さや説得力に関わりが深いという。

 その操作に長けている人が、コミュニケーション能力が高いとしている。例として挙げられているアナウンサーやキャスターを思い起こしてみると、なるほどという気がしてくる。

 そして、最後のまとめ方にこうある。

 国語教育において、本当に「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、少なくともスピーチやディベートばかりを教え冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの教育方針は、大きな転換を迫られるだろう。

 うーん、どうだろうか、と思う。
 「スピーチやディベートばかり」という件は少し誇張されているように感じるが、まあ「冗長率を低くする方向」は確かにその通りだ。
 だが「冗長率を低くする」そのものは…やはりこのことはなんと言ったらいいか、方向として的確かつ妥当なのではないか。
 「だけ」と書いていることは、多様な道筋の否定をしないと受けとめられるが、それはそうとして、達意の文章を書けるように、達意の話し方ができるようにすることが,そう国語教育の第一義であろうし,あまり付加的な要素を高くするのも,どうかと思ったりなんかする。(とずいぶん冗長率を高くして書いてみました)

 仮に「冗長率が高い話し方」を教えようとするならば、具体的にどんな内容になるのだろう。
 「気乗りしないときの話の合わせ方」とか「あいまいなままで先延ばししたいときの言葉の使い方」などとなるものか。それはオーバーにしても、おそらくはペア、グループでの話し合い場面や演劇的な手法などを通して、その有効性などを探っていくことになろう。

 それにしても、結局のところ、そうした操作ができることは、冗長率の低い話をする力を持っていてこそではなかろうか。

 もちろん「話し方・聞き方」に関して、多様な教材開発があっていい。
 しかし少なくとも義務教育においては、冗長率を低くして話すという機会を重ねていくことが、最終的な操作の能力を高めることにつながる(と信じて、歩みを進めたい)。

 冗長率などという言葉に惑わされて?指導そのものが冗長になってはいけない。
 ええ、まあ、そんなところでしょうか。