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ジュヴィナイルの芯となるもの

2012年01月19日 | 読書
 「ジュヴィナイル」というと競馬ぐらいしか思いつかないが、「若年期」という意味らしい。
小学校時報という小冊子に載っていた対談で、人類学者である長谷川真理子教授が語っていたことに目が留まった。

 人間の本来の生き方である狩猟採集生活の子どもたちは、七歳から十二歳は、下の子どもの面倒を見たり、親の手伝いをして、結構な食糧獲得とか家事ができ、実質、貢献できるんです。小学校ってその時期でしょう。

 中学生以降の思春期になると性的なことが入ってきて単純ではなくなるので、それ以前の若年期の過ごし方は、人間を形づくるうえでとても基本になるのだという。
 当然と言えば当然ながら、今さらながらにその発達段階に即した教育ってなんだろうと思う。

 日本という島国国家、稲作を中心とした移動の少ない集団文化…そうした歴史的経緯によっても日本人としての特性は作られているだろう。
 ただこれだけ生物学的な検証も進んでいるとすれば,ヒトとしての成長過程で身につけていく必須なこと、その手段などはある程度絞り込まれ、一定の合意を見てもいいことではないか,などという考えが浮かぶ。
 まあ、それは学習指導要領なりにも反映されているではないかと言われれば、それまでだが。

 究極的には「自分で飯を喰うための力」をつけるということにまとめてもいい。
 狩猟採集や農耕であってもいいが、それが主になる時代ではない。生きるための糧を得る手段が細密化してくればしてくるほど、多様な選択肢が出てくる。そこにどう乗っかり、判断し、選び、用いていく能力か…。

 小学校では何をすべきか…。
 本を開き、みんなで読む勉強も必要だろう。しかし、いつもそれからではない。一番初めにそれがあるわけではないだろう。

 「降りていく学び」という言葉が、ふと降りてきた。

 昨秋、上條晴夫先生が講演の際に使われた言葉である。正確には「基礎に降りていく学び」。基礎から積み上げていくのが一般的な学校現場において、いわゆる活動型の授業から始め、その後必要になった事項を基礎として教えていくという流れもあるという問題提起である。

 これは大きく言えば、総合活動等で名高い実践校においてダイナミックな形で見られることもあるだろう。
 やはりそうしたある意味骨太の実践をもう一度見つめ直してみるべきか。自分の足元と照らし合わせ、地域や状況にあった内容、手立てをもっと真剣に考えてみたいものだ。

 言い古されているが、自己有能感、効力感の高揚こそが、小学校教育の芯である。
 ことばだけの「活用」問題が解ければそれらが高まるというのは、さみしい話だろう。

 長谷川教授の話から、若年期はこうまとめられる。

 本当に自分はできるんだということを次々と経験していく。そういう大事な時期。