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「時と人」の作家の語り方

2012年01月25日 | 読書
 『1950年のバックトス』(北村薫 新潮文庫)

 この作家を一冊の本として読むのは初めてである。
 短編集となっているが,全部で23あるそのなかには「掌編」ほどの長さのものもいくつかある。
 実に多彩なというか様々な文体を駆使していて,一言でいうと「達者」な書き手という印象だ。

 直木賞作家でもあるし,多くのファンがいるのかもしれない。
 読ませる,惹きこむエピソードの入れ方が上手だと思う。

 個人的には,「小正月」という作品で,主人公の母親が倒れ,ベッドで「…なります」と口にしたうわ言に込められた回想が,何故か心に残る。

 祖父が鉈を持ってきて,家にある柿の木をこんこんたたいて,こう言うのだそうである。
 「どうだ。来年もなるか。ちゃんとなるか。」
 この「脅し」に対して,祖父の後ろに従って見ていた幼い頃の母が「なります。なります。」と小さい声で答える役目を担っていたのだという。

 こういう風習や慣わしがある地域があるのではないか,と思わせる。またそうでなくとも,そういう家がある,確かにあったのだろうと思う。

 鉈を持つという物騒さとは裏腹に,自然の恵みに対する愛着や願い,そこで一緒に暮らす人間の決意や,童女の成長を絡ませていく祈り…そんな風景が鮮やかに浮かび上がる。


 さて,この作家の作品には「時と人」というコピーが添えられていることが,本の帯に記してあった。代表作にもそのシリーズがあるらしい。

 「時と人」は,いろいろな切り口があるのだと思う。
 ただ結論としては,この本の最後に収められた「ほたてステーキと鰻」の女主人公が呟く言葉に集約されると思った。

 まずそれは,五十路になり,友を失って強く感じたことであった。

 時は,自分を奪う前に,まず色々な物を奪う。

 そして,ちょっとした買い物トラブルの末に噛みしめたことであった。

 しかし,何かを失えば,また何を得ることもあるのだろう。

 たぶん「時と人」の作家は,この二つの真理の距離を長くみせたり,縮めてみせたり,様々な方向から語ってみせたりしているのだ。

 その意味では観察力と構成力の作家と呼べるか。

 短編でないものも一つ読んでみるか,という気になっている。