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桜と絵本と豆乳と

日常にある大きな分岐

2012年01月15日 | 読書
 『続 閑人生生』(高村薫 朝日文庫)

 朝日の「AERA」連載がまとめられた文庫である。2009年の夏から2011年4月までの文章なので,当然東日本大震災のことが最終の部分を多く占めている。

 時系列で並べられている時事評論ではあるが,冒頭のあたりで心に留まる文章は,まるでこの災害に向けられて語られたようにも思えてきた。

 最初は高齢者の「登山ツアー」の話題。そのまとめには次のような文章がある。

 振り返るに,戦後の経済成長と国土開発の歩みは,私たちが自然への想像力と身体への想像力を失っていく歩みでもあった

 次の頁は,夏の集中豪雨について書かれてあった。そのまとめ部分にこんな一節がある。

 気候の変動であれ,一過性の異常気象であれ,時間雨量百ミリという数値の頻発は,現実問題として,国土の利用の仕方そのものの見直しを,私たちに迫るものに違いない。

 こうしたいわば警告を発してきた人は,以前から少なくなかったはずだが,どれほど実際の掲示や生活の見直しに結びついたかと言えば,具体的に思い浮かべることは難しい。

 そして著者が,自らの阪神大震災後の経験,そこから得た認識をもとに語る言葉はじわっと心に迫る。

 そして,彼らは今回もまた早晩問題の本質から逃走し,いずれ何事もなかったように日常を取り戻せるという慎ましい過信をもつのかもしれない。

 復興という二文字をどう受けとめるか,被災された方々個々の思いは,被害の差や性向などによって違いがあることだと思う。
 しかし今ある者の姿勢が,将来の暮らしや生き方を形づくることは確かなことであり,その意味で困難な選択を強いられることは間違いない。

 そうなると,そこに強いリーダーの存在,確固たる方針を持つ組織確立,当該住民の参画保障…等々,多くの要素を揃えていくことが必要になってくるだろう。
 国の政権にしろ,地方自治にしろ,そういう「現在」の問題に正対しているか否かを,それぞれの語る言葉により注意深く耳を傾けて選択することが,確実に出来ることの一つである。

 また,そういう一方の認識と同時に,様々な方々によるさざ波のような支援を大きなうねりにするために,少しであっても働きかけの手を休めないようにしていきたいものだ。

 それらを日常の一部に加えられるかどうか,そこが大きな分岐だと気づかされた。