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迷惑をかけてもかけられても

2012年01月31日 | 読書
 『遺品整理屋は見た!!』(吉田太一 幻冬舎文庫)

 こういう職業があることは以前から知っていた。
 かなり独特な視点で人間の生活を捉えるのではないかと漠然とした興味が湧いたので、手にとってみた。

 が、まず読み始めて、少し辟易してしまう。

 腐乱死体や強烈な死臭の描写、ゴミ屋敷から発生する巨大なハエ…ある意味淡々とした表現で描いているのだが、想像するとちょっと滅入る気分になり、止めようかなという思いが出てきた。こんな読書は久しぶりだ。

 それでも慣れとは恐ろしいもので、また内容も様々なこともあり、次第にあまり感じなくなった。
 仕事としての遺品整理も、こんなふうに慣れていくのだろうか。
 いや、それはあまりに短絡的だろう。

 筆者にはもちろん作業上の慣れがあっても、個々の死やそれを取り巻く人間模様を深く受け止める感性があり、それを持続できたからこそ、こんな形で残っていくのだと思われる。

 それにしても、遺品整理という職業が成り立つ背景は、考えてみると寒々しい。
 ある意味で一見幸せそうに見える社会に出来た異物処理の感を否めない。

 当然ながらそれは、都会と言われる場所に大きく成立し、私の住むような地方にあってはあまり例を聞かない。
 ただそれは全くないわけではないだろう。遺品整理という状況はどこにもあるが、それを業者に依頼しなくても済む環境がある程度成り立っていて,それが孤独や孤立を少し緩めてくれているのは確かだが,絶対的なものではない。確実に糸は細くなっているだろう。
 その自覚を地方に住む者はもっともつべきと…まず自分に言わなければならない。

 人がどんなふうに死を迎えるか、それは誰にもわからない。
 しかし客観的にみて、周囲に見守られた穏やかな死は、幸せの一つの形には違いないと思う。
 結局それはどんなふうに人に関わってきたか、折り合いをつけてきたか、ということに尽きてしまう。

 人に迷惑をかけない生き方とは、裏返せば人に迷惑をかけられたくない生き方でもあり、そんなふうに固くなってしまっていいものか、と振りかえりながら思う。


 さて「遺品」という形で、自分の持ち物などを想像すると、ちょっと格好悪いなあと思ってしまった。
 整理整頓の才能がないと言い続けながら、単にサボっているだけという事実も発覚する。
 先日の休日午前も、雑誌、本、書類やら何やらであふれかえる書棚を見つめながら、結局何もできず「ああ懐かしい」などと言いながら,70年代のレコードなんか引っぱり出して聴いたりしているわけですよ。