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加担者としての自分

2013年01月21日 | 読書
 『経済成長という病 退化に生きる、我ら』(平川克美 講談社現代新書)

 きっと今年はこの人の本を何冊か読むことになるだろう、と思っている。内田樹氏との交遊が有名で、その線から購読してみたのだが、まさに当たりだった。

 「物価目標2%」というニュースが喧伝される今、この著と照らし合わせてこの国の行方を考えてみると、そちらに進んでいいのかという思いが過ぎってしまう。
 書名からしてそうだが、ふだん何気なく何の疑いも持たずに話したり、書いたりしている言葉に対する感覚、分析の鋭さは恐れいるばかりだ。

 例えば、「グローバル化とグローバリズム」。

 例えば「多様性、多様化の時代」

 今まではっきりしていなかったモヤモヤに、輪郭を与えてくれるような知見だった。
 教育でもよく使われる言葉ではあるが、その意味するところが、結局は経済合理性、覇権主義などと深くかかわっている。

 そこに振り回されず仕事をするのは難しいことかもしれないが、立ち位置をよく知ることは、自らの心身を自らのものと意識するためには必要なことのように思う。

 10ページを越す「長いまえがき」に著者はこう記している。

 誰でも評論家のように外部から「事件」を眺めて裁断することは可能だが、誰もがほんとうは外部にいたわけではないということは言っておかなければならない

 この著は2009年発刊であり、リーマンショックや秋葉原連続通り魔事件のことが重く取り上げられている。
 これらの出来事が、自分と関わりあっているという直接的な思いを抱く人は多くはないだろう。

 表現として記された「可能性としての被害者、可能性としての加害者」が限りなくゼロに近いのかどうか。
 それは置かれた環境や隔てた距離等によって測れるものではなく、知識と想像力によって姿を現す。実は初めから存在しているものなのである。

 そうやって昨今の「いじめ」「体罰」事件を考えてみることも必要だろう。

 つまり、「加担者」としての自分。
 バイアスのかかった見方や言い方をしていないだろうか、疑わしいとしたら、どのような経験からそうなったのか。

 そんな振り返りを自らに課そうとすることは、上からの通達によるものとはかけ離れている気がする。