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年を越してしまった思いの小ささ

2013年01月04日 | 雑記帳
 ちょっと珍しいな,と思ったのだった。
 12月になれば,必ず自分がしていたことを忘れているのだった。
 忘れていることに気が付いてからも,あまりその気にならなかったのだった。

 何のことかというと,「手帳を買う」こと。

 11月に入れば,ずらりと店頭に並ぶそういうコーナーに目がいかなかったのは,確かに公私共に忙しかったことに違いないし,忙しさも例年以上であったことも否定はしないのだが…。
 「計画好き」を自称してもいいこの自分が,この大事なことを忘れ,関心が薄れるとはどうしたことか。

 心の隅っこにそんな思いを残したまま,年を越した。
 今年のめあてやモットーなどに向き合う時間を持てなかったわけだ。

 箱根駅伝を見ながら,そろそろ腰を上げねばなるまいと,家族恒例の「一字書初め」に臨む。
 なんとしようかな…全く思いつくままいくつかの候補の中から選んだのが「備」という文字。

 広辞苑の冒頭にはこう書かれている。

必要な種類と数を欠けることなく用意する意

 そうなのだ。
 これ自体は別に方向性を示しているわけではない。
 いろいろなことに備える,とよく口にするが,それはしっかり分析されたものなのかどうか。
 つまり「何のために,何が,どのくらい必要なのか」を見極められているのか。

 この齢になれば,「何のために」は自ずとわかる。
 仕事であれ,家庭のことであれ,描かれる像はある程度持っているし,また必ずそうでなければならないという頑なさもそれほど強くない。
 心の持ち様が大きく占めているという実感は年々強くなっている。

 しかしだからと言って,他を巻き込むほどの奔放さで生きようとも思わないし,今まで自分がしてきたことに価値をまったく見いだせないわけでもない。
 言うなれば,自分をどう生かして活動できるか。
 そしてそれはほんの少しであっても周囲や社会を明るく楽しくするものであるか。
 そんなところが結論か。

 そうすれば,量的な意味の「何が,どのくらい必要なのか」という範疇では,「備」は完結しない。
 常に「備」は流され,巡り続けるイメージだ。

 「備」のツールとして手帳を生かせなかったことが続き,徐々に小さくなっていった思いに気づく。