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お金とムードとセンスと

2013年01月22日 | 読書
 『お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ』(糸井重里・邱永漢  PHP文庫)

 金儲けや経済のことについて語り合われているわけではない。
 しいて言えば「お金との向き合い方」ということになろうが、それが内容の多くを占めているわけでもなく、糸井が邱の価値観、人生観をあれこれ訊き出している対談集といっていい。

 読み終わって、心に残ったのは次の言葉。

 「ムード」そして「センス」

 その昔、糸井が邱にどんな土地を買ったらいいか尋ねたときに、邱が「ムードのあるところを買えばいい」と答えたというエピソードがあとがきに載っていた。

 見事な話である。

 ムードそのもののとらえ方は人それぞれに違うだろうし、どんな観点で有無を決定するのか、到底説明できるものではない。
 それを超越して「ムードのあるところ」と言い切るためには、いうなれば「センス」の問題となる。

 邱は、訊いた者のセンスを見通してそう答えたのかもしれないが、そうでない人に対しても「ムード」と言いきってしまうようにも思う。
 もしかしたら、その感覚つまり自分のセンスを信ずるところから始めよ(その覚悟がなかったら止めなさいとも)と言いたいのではないか。

 商売がうまくいったり、金儲けができたりする人が、一様にセンスがよくてムードを持っているとは限らない気がする。しかしまた、そうした成功者?も目立っていることは確かだ。

 そうした人たちの共通項を探れば、しっかりと自分の感覚を信じながら、ある面冷静さを持ち合わせていることも確かだろう。
 それは、方向を見極める目ということだろうか。

 邱の語った次の一言も含蓄が深い。

 自分が本当にやりたいと思ったことで成功する人は少ないですね。

 自分の欲求とあまりにもぴったり合うものだと、前のめり感が出過ぎて、外に漂う雰囲気は張り詰めてしまうのかもしれない。芸術家なら十分あり得ることだ。

 そう考えると、一般的には人の魅力を表わす言葉として、ムードとセンスは最高級に近いのかもしれない。
 金銭がある程度の支えをしていることは認めざるを得ないが、人はセンスある者に惹かれ、ムードのよい者の引き寄せられていくことは、周りを見たって確かだろう。

 ただ、センスを磨くということは、他や周囲からうまい具合に誘導されることではない。
 あくまで自分の内部を見つめ、信じて行動することから輝きが増すのではないかな。