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巧すぎて「和解」できません

2016年12月29日 | 雑記帳
 最近、違和感の残る語が耳に入ってきた。一つは「育ての母」。これは「育ての親」が一般的なはずだ。傍にいた家人は「いいんじゃない」とつぶやいたが、「育ての親」という語は「育ての母」「育ての父」の二つに分類できるものではない。当然「養父母」という存在も指すのだが、そうした戸籍上の関係を超えて範囲が広い。


 「本当の親ではないが、実際にその人を育てた人」と意味が類義語辞典に載っている。小分類として「育ての親」そのものが掲げられ、示されているのは次の語群である。「養い親」「養父」「養母」「養父母」「里親」「代理親」…。しかし「継母」という語は別分類だ。「育ての母」なんて勝手に和語にするなと言いたい。



 もう一つは「和解の力」。このビッグワードに噛みつくか、と及び腰だがどうにもすっきりしない。違和感は「和解」「の」「力」の三語それぞれにある。練りに練り上げられた言葉だろうから、意図的なことは確かだ。一つ目は国同士として一般的な「和睦」を使わず、集団、個人レベルの「和解」を持ってきた点だ。


 「私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、『和解の力』です」という演説文は、私たちという主格で括れば、自然な流れにある。だからこそ「真の和解か」という問いを立てると、押し付け的表現にも思う。次は、結びつけるのに便利な助詞「の」。なぜ「和解する力」ではないか。


 より広い意味を持たせるためだ。「和解に必要な」「和解しようと努めた」などを包括したイメージだ。そして「力」。それは、前段の「寛容の心」との照応もあるが、ここには「実行」や「技術」といった意味合いが強く込められている。えっ…結局これは、あまりに巧いワードづくりを妬んでしまった文章となった。