すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

変化しない感覚に向き合う

2019年12月05日 | 読書
 精神年齢と言ったりするが、よくも悪くも身体の実年齢とかけ離れていると思うことが、時々ある。


Vol.182
 「人間は齢を経るにしたがって老獪という成熟を手に入れることができるが、感覚だけはほとんど変化しないし、進歩もしないという実感がわたしにはある。」


 月曜に読み終えた『路地裏で考える』の中の一節である。
 妙に説得力を感じた。
 著者の平川が、詩人谷川俊太郎と対談した時に、谷川が若い頃の散文は恥ずかしくて読めないが詩なら読めると答えたことに、共感を示した一言だった。

 ずっと昔「人は誰でも25歳までは詩人である」という句を聞いたことがあった。
 実際の区切り年齢はともかく、若さが詩とつながっているという考え方が古くからされていたことは確かだろう。
 しかし、それとは別に一人一人のなかにある「感覚」は実はあまり変化せずに残っていて、要はそれを表現できるかどうかという考え方もあろう。


 ここで「老獪」「成熟」とは何ぞやということになる。

 経験を積むことは精神の成長を促すが、それはやはり論理面が大きく、感覚面としては乏しいのかもしれない。
 とすれば、悪賢いのは論理であって、感覚は清いままに残されている可能性だってある(都合のいい解釈だ、これが老獪かも)。

 もちろん、稀有な体験によって、大きく影響をうける人も存在するはずだ。
 けれど一般的には、幼少期から青年期まで根づいた感覚は案外頑固なのかもしれない。

 「人は誰も、自らの感覚に向き合ったとき詩人になるのだろう。」と平川は重ねて言う。

 繰り言は仕舞いにして、感覚に向き合ったとき表現への手蔓があるならばたぐり寄せてみたいと思っている自分はいる。