すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

月は明るくとも暗くとも、ある

2019年12月24日 | 読書
 岩波文庫のイメージは「堅い」だな。若い頃「読め」と大先輩教師から『学校と社会』(デューイ)を手渡された思い出がある。作家佐藤正午の小説は以前一冊だけ読んだ。文体に慣れなかったことがあり、少し面白い感想を残していた。直木賞受賞作品が「岩波文庫的」と銘打って文庫体裁で発刊されたので読んでみた。


2019読了107
『月の満ち欠け』(佐藤正午  岩波書店)


 面白かった。「生まれ変わり」というモチーフが、ありがちなサスペンス的に流れず、個人の内面に深くかかわっていくその展開に惹かれた。久しぶりにページをめくる楽しさが迫ってきた長編小説だった。数年前、読みづらいと感じた頃から自分も少し変容したかもしれないし、センスや技法が見えてきたように思う。


 「神様がね、この世に誕生した最初の男女に、二種類の死に方を選ばせたの。」というある会話の中味が、実際に神話的な伝えなのかどうか定かではない。しかし、そこに示された「樹木のような死」つまり子孫を残す道と、「月のように」つまり満ち欠けのように死んでも何回も生まれ変わる道という二択は、心に沁みる。


 この文庫を読み始めた次の日、知人のご家族の不幸を耳にした。その悲しみは想像するだけでも痛々しい。読み終えてふと、もしかしたら何年後かにこの小説の描く世界と少しばかりの救いとして出逢ってほしいな、と勝手に思いを抱いた。人間の情とは、突き詰めればどんな想いも引き起こす…理性など吹きとぶ。


 情念の象徴として、引用された歌人吉井勇の一首が印象に残る。「君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも」…日本人の多くは素養がなくとも「ちかふ」内容が示されないこの歌を理解するだろう。その偉大さよ。平凡な日常のあちこちに目に見えない想いは渦巻くのだ、そんな景色が浮かぶ小説だった。