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方言で今を語るために

2020年06月13日 | 雑記帳
 朝刊の文化欄に詩集発刊についての記事があったが、朝に読み通す時間はなかった。職場で事務仕事をしていたら、ご近所に住む方から電話があり、その詩集『福司満全詩集』(コールサック社)が送られてきたので、一部寄贈したい旨の申し出があった。所属同人「密造者」は知っていたが、著者は初めて聞く名だった。


 その本を携えておいでくださったのでしばし懇談をした。詩の分野においても高齢化は進んでいることを痛感する。しかし、言語を主体とする表現は何かしらの形として残しやすさもあり、継続可能性は大きい。普及に努める責任の重さを自覚しなければと思う。この詩集の大半は「方言詩」。体に馴染みが残る。


 約60年前に建てられたこの元保育所に居た頃のコトバは…2020.6.11

 詩人として著名な地元の先輩たちも書かれていたし、今もって地元紙の詩投稿コーナーにはその類がある。この詩集の著者は、この分野を極めたお一人のようだ。中味をみると発刊された4冊のうち、第2詩集以降は全て方言詩の作品で占められていた。そしてその大きな特徴は、漢字に方言ルビをふる手法である。


 著者はその理由を「方言詩 今を書くべし」というエッセイで触れている。その手法に様々な異論もあるが、「方言の持っているニュアンスをより強調的に表現する」ための工夫としていて、逆に方言に漢字や現代語をルビとする応用もいいのではないかと述べている。確かに、それは語への愛着を端的に示している。


 一つのコトバの存在価値とは、当然思いや考えを的確に表出できることにある。それが他者に対する表現という場で高まるとすれば、理解や共感を進めた場合だけでなく、疑問や違和感等も含めた認識の深まりが感じられた時か。世相や周囲に対して、心底から口にしたいのは、方言だと感じることが自分には時々ある。


 例えば「イダマシ」「ツラツケニャ」「ムドサガニャ」…どんな漢字・現代語ルビになるのか。少しニュアンスを探ってみると「勿体無い」「厚顔無恥」「見るに忍びない」…という感じか。しかし文字表現だけでは難しいことがはっきりする。場を広げることは意識しても、本当に届く半径をまず把握する必要がある。