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見えないものしか信じない?

2020年06月17日 | 読書
 著者によると「文芸エッセイ」というジャンルで、好んで読む人の極めて少ない分野だという。やはり自分は物好きだなと思う。

 『見えないものとの対話』(平川克美 大和書房)

 この書名は、冒頭3ページ目に引用された「眼と精神」(モーリス・メルロ・ポンティ)の文章に触発された語句と言える。ただ最終編で引用された村上春樹の小説の一節とも重なり合っている。それは物語の中である調律師によって語られた。

 「かたちあるものと、かたちないものと、どちらかを選ばなくならないとしたら、かたちのないものを選べ。」


 わが師とする野口芳宏先生は、教育実践では「見える力」に力を注がれたが、授業分析や道徳、教養講座などでは時折、次のようなことを口にされている。「可視化されたものごとだけに翻弄されるな」「不可視の部分に成長がある」…見えないものの大切さは、古今東西の偉人、名人たちによって語り尽くされてきた。


 「なんでもない些細な景色が蘇ってくる」といった歌詞はよくありがちだ。ただそれはある程度の年齢になると、多くの人が実際に体験するとも言える。強烈な出来事、格別に印象的な場面でなく、ごくありきたりの一瞬がどうにも頭から離れなくなるときがある。それはいったい何か。きっとそこに見えないものがある。


 そのためには「」を読むと良いと著者は薦めている(そういう文章はないのだが)。研ぎ澄まされた詩の言葉によって、その見えないものの感覚を共有しよう、と著者は呼びかけている(そういう文章はないのだが)。つまり詩とは、見えないものを、言葉をつかってその色とか輪郭とか匂いとか呼び起こす営みなのだ。


 さて唸らされたのは「人間は反省していない」こと。それは社会全体そして個人も共通していて、「反省の意味」がわかっていないからだと著者は記す。曾子は「吾日に吾身を三省す」と語った。三省の中身はこうだ。「他者のために動いたか」「友人を信じているか」「知識をひけらかしていないか」…本当に。反省する。