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桜と絵本と豆乳と

時間の経過を肯定する

2020年06月18日 | 雑記帳
 見もしないで寄せておいたある月遅れのある冊子をめくったら、映画監督の河瀨直美の文章が載っていた。そういえば、河瀬はオリンピックの記録映画の総監督を任せられていたのだった。その文章は延期が決まっていない頃に書いたようで、こだわって撮りたいのは「時間の経過」だと、その意気込みを語っていた。


 東京五輪を目標にしていたのは競技者だけでなく、膨大な数の関係者がいるわけだから、その人たちがどう今を過ごしているのか、切り替えられているものか、少し興味が湧く。都知事選が近づき当然オリンピックについても論戦が活発になるだろう。ここでも「目的」は何なのか、凝視している人に耳を傾けたい。

 河瀬の文章の結びにこんな言葉が書かれてあった。

 「一線を退いた人が、ちょっと余裕を持って、次の世代に言霊を出す。それも教えるという姿勢ではなく、普段の会話の中で、それとなく伝えていくんです。」

 実に格好のいいフレーズだが、「一線を退いた」自分は、それまでの営みの中から語り継ぐべき「言霊」を持っているのかどうかが問われる。きっと、問わず語りのように自然に出てきた「伝えたいこと」が、内実なのだと思う。その価値は受け手側に生ずるものだ。



 今日は勤務日ではなかったので、子育て支援センターのイベント「さくらんぼ狩り」に参加した。小さい子が中心なので短時間であるが、季節盛りの果実が美味しかった。戻ってから改めて思うと、ハウス内に結構な数の親子が揃った密な空間だった。しかし、ある面そんな敏感さを忘れさせてくれたひと時が嬉しい。


 河瀬の口にした「時間の経過」とは、ある地点を真ん中に据え前後の流れを追って記録化していくことのようである。意図的に考えるその事とは違って、ごく普通に流れている今この瞬間もまた、時間の経過である。感じられる時間に浸っていたい。そういえば正月の書初めは「肯」。流れる時間を肯定する姿勢である。