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「意味」は生み出すものだ

2022年02月06日 | 読書
 前回からの続き~自分が学校という場で働いたことは、「労働」だったか。「仕事」だったか。

『仕事なんか生きがいにするな』(泉谷閑示  幻冬舎新書)

 昨日書いたことから言えば、この書名は「仕事」本来の意味であったとすれば反語的な表現として成立する。ただ、働くことに意義や価値を見つけるためには、政治や社会の要求との折合いをどうつけるかが最大の焦点であり、そしてそこに限界もある。少なくとも、そう俯瞰することで自分は保てるのではないか。



 さて、もう一度「意味」について考えてみる。この著でなるほどと感心した表現の一つがこれだ。「『意味』は決してどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、『意味を求める』という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるもの」。要は、意味づける。


 これを「人生」に適用することが肝心だとは誰しもわかる。構成する要素はいくつか考えられ、当然「労働」や「職業」も入る。しかしその割合は人それぞれであることを、真から考える必要がある。「労働教」から脱し、本来の「仕事」「活動」そして自己の内面をよく見つめる生活そのものに、軸足を移したい。


 最終章「生きることを味わうために」には、いくつかのヒントが挙げられている。「日常に『遊び』を取り戻す」が最初の提言だ。遊びとは、ニーチェの論を引いて、こう説明される。「創造こそが最高の遊戯であり、『遊ぶ』とはすなわち創造的であること」。それは小児の無心な、熱中した遊びに象徴される姿だ。


 具体的な例として「食事」を挙げている。毎回の食への向き合い方は「味わう」を複層的に考えるために日常的でありかつ非常に本質的だ。総括的なポイントとして「即興性」と「面倒臭いことの歓迎」がある。つまりは計画的、合理的なことに支配されている心身への揺さぶりである。まず、内面に向き合おう。