すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今さら「総合」を語っても…

2022年02月19日 | 教育ノート
 昨年秋から何度か出向いた高校の、いわゆる「総合」の発表会があった。町の歴史をレクチャーしたが、自分にとって勉強になった点は多い。まあ、それより高校生の学びがどの程度だったかが肝心だろう。しかし短い発表であり何とも評価し難い。ただ、他グループを含め中身を概観し考えさせられたことがある。



 それは「総合的な活動の時間」そのものについてだ。現在の流れを知らぬまま書き散らそうと思ったのは、「総合」が始まった時代をリアルに覚えているからだ。その時間の創設を当初は批判的に見ていた。教科学習でできるという考えを持っていたのだ。しかし、担任を外れた自分が面白く取り組めたことも事実だ。


 小規模校に教頭で勤務した時に総合が始まった。その折はストレートに、「実態に即し」「児童の興味・関心」に照らし合わせた異学年コース別活動を行ったのだ。私は、「秋田弁・昔話」を担当した。当時はまだ手探り状態で「内容を明確に示せ」「福祉や国際理解は必須だ」等々様々な議論があったと記憶している。


 学んでいたネットワーク活動の実践家の影響もうけ、個人的には小学校では「ミニ総合」の繰り返しが一番効果的と考えるようになっていた。「テーマを決め、調べて、表現する」というユニットを、様々なジャンルで取り組ませ積み重ねれば有効に働くはずだ。活動スキルを身につけさせつつ、レベルを上げていく。


 発達段階に沿って、テーマを広げたり深めたりできるのではないか。こうしたことを小学校3年生から継続的に行えば、まとまった能力形成は可能だと…。この個人的な「絵に描いた餅」は、現状とあまりにかけ離れた気がする。今、高校生の発表を垣間見ただけだが、明確に言えるのは「問い」の連続性の薄さである。


 結局、大本である教育行政も揺らいでいるし、現場で指導する側の「総合」の捉え方がまちまちで、形骸化したといっていいだろう。総合の理念は、盛んに言われている「探求」から始まっているのに…。もし今自分が高校生を相手にするなら「一点突破!」。ポイントを絞りに絞って…あっ、また見果てぬ夢でした(笑)。