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横綱は言い訳しない

2022年02月24日 | 雑記帳
 昨年末から図書館エントランスに「リサイクル資料」(自由に持ち帰り可)として、古い月刊誌、週刊誌の類を置いている。ずっと放置されているものも多く、数冊家に持ち帰った。その中に、3年ほど前のスポーツ誌Numberがあり特集が「横綱論」だった。おおこれは…なかなか興味深いぞとめくってみた。




 私が子どもの頃はいわゆる「巨人 大鵬 卵焼き」の時代。家庭娯楽の一つとして大相撲のTV観戦があった。大鵬は絶対的な存在であり、地元出身の大関清国とともに人気が高かった。今思い出せば、その取り口は四つになって寄り切って勝つことが多いタイプで…雑誌でも語られる「横綱相撲」の典型にも思える。


 あくまでも個人的な見方と断っておくが、もう一人いわばこうした「受け」の相撲で印象深いのは北の湖だ。全盛期にそれほど熱心に観ていたわけではない。しかし、よく語られる「いやらしいほどの強さ」は、どんな組手にも揺らがなかった事実を示している。「横綱相撲」は「受けとめる」ことが核のようだ。


 立ち合いの攻め方等に関して白鵬が批判されたりするが、一つ前の朝青龍はもっと破天荒なイメージがある。攻めて勝つのは当たり前だが、極端にいえば相手にダメージを与えるような先手を出さないのが横綱、という考えにはマッチしない印象がある。土俵上以外のことも含めて、様々な批判を浴びた力士だと思う。


 その朝青龍をよく慰め励ましてくれたのが大鵬と北の湖だったという記事があった。「お前はお前のままでいい」と力づけてくれたという。人の受け取り方は様々、自分の都合のいいようにそうした言葉だけが心に残る場合もある。その意味で「話半分」と受け取ったとしても、二人の大横綱が語った意味は大きい。


 角界、識者たちが「横綱」について自論を展開し、意義(価値)としての横綱と、地位として横綱がせめぎ合う。時代によって横綱に求められるものは異なるだろう。しかし「強さ」だけは間違いない。それは究極で語れば心の強さの象徴と見た。大鵬も北の湖も「お前はお前」と言い切れた強さがあった。