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「花」を準備する「種」

2009年04月26日 | 読書
 『教師花伝書』(佐藤学著 小学館)

 野中信行先生がブログにこの本のことを書かれていたちょうどその日に、私も行きつけの書店で買い求めていた。
 「総合教育技術」誌で読んでいた文章もあったのだが、単行本として読み直してみると、やはり著者の主張が明確に伝わってくる。

 授業の巧拙や授業の結果の成否はどうでもよい事柄である。

 教師の仕事の本質は「教える」こと以上に「学ぶ」ことにある。


 著者の考えが明確に述べられているこうした文章を、読者はどうとらえるか。試しているわけではないだろうが、どのレベルで理解できるかが教師としての成熟度を語っているとも言えるだろう。
 「教える」ことこそ本質ととらえ追究を怠らない教師は、また優れた学び手でもあることを繰り返し見てきた。優れた授業を追い求める教師の多くは子どもの事実を徹底的に見つめていた。

 そう考えると、曲者はやはり「評価」ということになる。今、この言葉はまさに教育界を席捲するような勢いだが、飲み込まれてはいけないと改めて思う。
 評価という用語もどのレベルで用いるか、かなりの幅や落差がある。「省察」もその中に含まれるという見方もできるかもしれない。しかしあえて「省察」をそこから離して強調することは、今我々が置かれている立場を見直すということでは意味があるのだと思う。

 授業の省察は、授業者が意識的であるかそうでないかという点と切り離せないことである。かつてビデオを使った授業研究が一部で続けられたが、そこでの学びは省察にあったのだと今でも考えている。

 「教師の居方」が取り上げられていたが、これなど省察に値するまさに典型的なことである。ただ居方にもいくつかの原則があり、多くの技があるし、個人としての性なども見え隠れするだろう。
 この本にも具体的な姿はあるが、理解できない読み手もいるのではないか。居方、教師の立ち位置などはベテランと呼ばれる年齢になってもあまり変化が見られない人が多いことの一つのように思う。
 意識的に原則を学ぶ、その考え方を適用させようとして動いてみる、そうしたステップをあまり必要と感じていないからだろうか。


 さて、本文中にデューイの『学校と社会』という著名な本の名前を見かけて、少し胸を衝かれる思いを覚えた。

 初任の頃、たまたま書店で一緒になった知り合いの校長先生からこの本を贈られた。岩波文庫版だったと記憶している。満足に読みきれもせずに失くしてしまって、そのままである。
 若い教師に自信を持って薦められるレベルの本がある、ということにその先生の見識を今さらながらに感ずるのである。その校長先生が当時勤められていたのが、私が今月赴任した学校であるのは何かの導きだろうか。

 あれから三十年が経った。『学校と社会』を買いに行こうと思う。