すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

俄か落語ファンの繰り言

2009年06月11日 | 読書
 様々なジャンルの雑誌などに落語家が登場することは珍しいとは言えなくなった。今日、職場で配布されたある教材社の発行する冊子にも、巻頭インタビューとして立川志の輔が取り上げられていた。

 渋谷のパルコまで定例公演を見にいった経験のある私としては、様々な雑誌でもその語りは目にしているが、教育雑誌となるとまた興味が湧いてくる。
 志の輔独特のだみ声?(しゃがれた声?)と言い回しを想像しながら読んだそのインタビュー記事もなるほどだった。最後の小学校教員に向けてのメッセージに、次の言葉がある。

 正解って何だろうと考えたときに、「こうじゃないか、ああじゃないか」と言えるのが豊かな人なのだと思います。

 正答や効率のみを求める行為の貧しさ、つまらなさと正反対に位置する発言だろう。落語家なればこそだろうし、同時に少し世代的なにおいも漂う。話はこんなふうに続く。

 わたしたちの世代は、その芽を育ててもらえた、とはあまり言えません。
 
 同世代である私は、中学の数学の授業で証明問題をとにかく誰よりも早く解き教師に見せにいきたい生徒だったし、それが続く毎日が快感であったことも覚えている。
 その時間はけして無駄ではなかったと思うのだが、複眼や多様や柔軟や…といった芽はきっとなかなか伸びなかったのは確かだろう。

 時々落語の世界に浸っていると、伸びずにいた芽がようやく少し動くことを感じたりする。人並みに伸びることはできないにしろ、いい刺激にはなるかもしれない。

 同年代に俄か?落語ファンが多いことと無縁でない気もする。

「ゆとり」を語る

2009年06月10日 | 雑記帳
 いまさら「ゆとり教育」を論じようというわけではないが、現状はあまりに「ゆとり」という言葉がかわいそうすぎるのではないか。
と、またあらぬ方向?へ思考がとんでいく。

 「ゆとり世代」…ゆとり教育の功罪が盛んに議論されたわけなので、なんとなくこれはわかる、というより仕方ないかという感じで受けとめる。「ゆとり族」もまあ似ている。
 では「おゆとり様」はどうだ。これは「おひとり様」という独身○十代の女性(最近は男性も)を表す流行語からの派生か。駄洒落としてはいいと思うが、だから何だという気になってくる。
 そして、極めつけはこれだ。

  「ゆとり語」
 
 えっ、そこまで来たかという気になる。つまり「ゆとり教育」を受けた世代が使うことばだと言う。結構多くのサイトがある
 
 「若者言葉」「ギャル語」と称されるならまだ許せる気もするが、「ゆとり語」とは…。
 どこまでも言葉の品質が下がっていくような、本来の意味ではなく、その言葉の持つよくない面が拡大していってそのイメージが象徴的になってしまう典型なのだろう。

 かくして「ゆとりと充実」というスローガンの、二つの言葉(心)はだんだんと離れていくだろうし、確かもう一つあった「ゆとりとうるおい」という文言も同様だろう。充実もうるおいも「悪者」になることなく生き続けているわけで、これはある面ゆとりのおかげであることを忘れてはならないぞ。

 「教育にゆとりを」とはもう言えなくなったが、「教育の充実」はいつでも言える。「教育にうるおいを」だったら、かなり新鮮だ。なんだか自分の目指す方向のようにも思えてくる。

 そして、地面に叩きつけられたような「ゆとり」がそんな僕らを恨めしく見ている…

寺子屋で教えた人づきあい

2009年06月09日 | 雑記帳
 数年前からちょっと流行っていた「江戸しぐさ」についての雑誌記事をたまたま見かけ、少し興味深く思いネットで検索してみた。

 恥ずかしい話だが、寺小屋に「一般の寺小屋」と「江戸寺小屋」の二種類があったことを初めて知った。
 一般は「読み書きそろばん」が中心だったが、江戸寺小屋は商家の親たちが子弟のために共同で師匠を雇った公塾のようなものとある。

 そしてそこで力を入れたのは「見る」「聞く」「話す」「考える」というから、ちょっと驚いてしまう。
 言葉遣いには特に厳しく、「人は世辞が言えたら一人前」と言われたそうだ。さすが商家、町衆という感じがする。

 もちろん一般で行われる読み書きそろばんも下地として行われていたようにも想像するが、それ以上のこと、つまり「人づきあい」「人間関係」に中心をおくというのは、何かしら今の状況と似ているような雰囲気も感ずる。

 おそらく当時の江戸には、異文化が勢いよく流れ込んだだろうし、そういった様々な考えを持つ人間に対応していくために求められることは、現在と共通する要素を持つことだろう。

 町衆の子供たちは、6歳までに古典に親しみ、9歳までには大人のことばでどんどん話しかけ、母国語のボキャブラリーを増やしたそうです。

 この記述にああなるほどと合点が行き、思わずきっかけとなった雑誌記事を読みなおし、次の警句がまた一層深く感じられた。

 「三つ心、六つ躾、九つ言葉、文十二、理十五で末決まる」
 

嘘は虹色という妄想

2009年06月07日 | 雑記帳
 河出書房新社が出している『文藝』の夏号が、歌人の穂村弘を特集に組んだ。

 まだほとんど読んでいないのだが、目次の次の最初の企画がすでに面白い。

 「短歌穴埋め問題」である。全部で3問。
 穂村ファンを自称する者としては、全問クリアをねらったところだが、答(穂村の作品)をみると、残念ながら1問外した。

 その問題がこれ。

 呼吸する色の不思議を見ていたら「■よ」と貴方は教えてくれる
(ヒント「漢字一文字」)


 音数からいえば、一音だとはわかっていても、ふと頭に浮かんだのは「嘘」という文字。
 結構しっくりくるんじゃない、男女の感性の微妙なすれ違いを表しているのではないか…などと少し自信を持っていたが。

 正解は「火」。
 はあ、なるほど。これはもしかしたら、正反対のイメージかもしれない。また「誰の」呼吸する色を見ていたのか、そのあたりの想像も大きい。

 そして今になって、自分がこの歌を最初読んだときに、その色が「七色」というイメージを持ってしまったことに気づく。おそらく「不思議」からイメージしたことか。

 つまり自分にとって、嘘は虹色、なのか。
 どういう妄想をしているのか、と休日の夜に考える。

丁寧な時間を遮る毎日であっても

2009年06月05日 | 読書
 書棚にある見本誌の背表紙に書かれた「親子幻想」ということばが目に入って、手にとってみる。

 その中に、絵本作家の五味太郎の文章が載っていた。ちょうど先週、近くの美術館でその原画展をみたものだから、流れるようにそのページをめくってみた。
 結構過激なことを書く人だなあと以前読んだときも思ったが、この数ページの文章もそうであった。その中で心に留まった一つの言葉

 ガチャガチャしていない丁寧な時間

 「高級な時間」という言葉が最初に出てきて、それを言い直した「丁寧な時間」。つまり、こんな思考をする時間だという。

 自分のペースで、自分の考えで、自分のタイミングで、ちょっと聞いてみたい

 なるほど。五味はそういうことが今の初等教育に欠けているのではないかと感じている。
 確かに反論できない面もあるが、それを学校という組織の中で実現していくには、いくつか解きほぐさなければならない現状の塊があると思う。むろん、だからといって子どもたちに「丁寧な時間」が与えられないと決め付けることはできない。

 結構な時間を過ごす学校生活の中で、子どもがそれなりに自分のペースを守っていることがある。その姿を見つけられるか、それにどう関わって、全体の中でどう位置づけていくかは、やはり教師の大事な仕事であると思う。

 仮に丁寧な時間を遮る毎日であっても、そのことを意識しているかどうかは、いつも問い続けたい。

稽古とは、深い言葉だ

2009年06月03日 | 雑記帳
 相撲大会で主催者の挨拶を聞いていて、ふと耳に留った言葉がある。

 稽古 

 ごく普通の言葉ではあるが、学校では「練習」としか使っていない気がする。似たような意味ではあるのだが、稽古という文字が思い浮かんで、「古」というからには古くからの形式に則ってということだろうと予測がついた。では「稽」は何だろう?
 はてなではこう書かれていた。
 
 念のために、手元の漢和辞典を引いてみる。
 「あるところまでとどいてとまる。とどまる。」が最初に載っていて「つぎつぎと思いをめぐらす。かんがえる」は二番目となっている。
 「いにしえに思いをめぐらすこと」が稽古の語源ならば、やはりある意味で「精神論」「形式」が強く押し出されることになる。
 「およそ『日本的』な習い事」を指すことが多い」はいかにも的を射ている。

 稽古事などほとんどせずに齢を重ねた自分にとっては、やはりそうした世界にある種の憧れを感じてしまう。それは何か、稽古を繰り返したことによって内部に蓄積されただろう「古」。
 それは揺るがないものだろうし、いつでも戻ってよい、迎えてくれる場所のイメージがある。
 初めて知ったが、千利休はこんな歌を残しているという。深いなあ。

 稽古とは一より習い十を知り、十よりかへるもとのその一


ランドマークの哀しみ

2009年06月02日 | 読書
 「ランドマーク」という言葉は、いつ覚えたのだろう。

 たぶん横浜ランドマークタワーなのかな、と思う。「その土地の象徴となるような建物や記念碑」というのが広辞苑の意味だが、建物のイメージが強く、それも高層であり、どこか個性的な形態を持つことが条件なのだと思う。

 吉田修一の著した『ランドマーク』(講談社文庫)は、切ない小説だ。

 大宮という地に、ランドマークとして建設する超高層ビルに関わる二人の男、三十代の設計士と二十代の鉄筋工の毎日を描いている作品である。その舞台や人物設定に、現代が持つ不安定さが象徴されているようで、全編に哀れさが漂う気がした。

 鉄筋工は、男性用の貞操帯をつけて自分を締めつけながら、一方ではその解錠のための鍵をたくさん作り、建築中のビルの階ごとにコンクリートの流し込む枠に秘かに入れ込んでいる。自分自身を呪縛しているような行為、それは崩壊によってしか救われない現実を抱えていることを痛切に感じさせる。

 さらに、その若者は出身地から「キューシュー」と周囲に呼ばれる男だが、一緒に働く現場作業員たちの多くが東北出身それも秋田であるという設定、東北弁が会話にちりばめられる展開は、私にとって入れ込まざるを得ない筋を持っている。

 都会を取り巻く現象を描いてはいるけれど、それはとりもなおさず地方が抱える多くの現実でもあることを意味している。
 結末に高層ビルの建築現場で一人の男が自殺するが、それは主人公ではなく、そして鉄筋工の身近にいて問題を抱えていた秋田出身の若者でもなく、頼りがいがあり相談にのってくれそうな先輩作業員、それも昭和31年生まれ、娘を二人持つ出稼ぎ労務者であったことがどうしようもなく胸に迫った。

 世代的な弱さを露呈してみせたとも言えるし、そのことで作者自身の世代、そしてもう一つ下の世代のある意味のしたたかさを描きだしたようにも思う。

 その高さと独特のスパイラルな形状によって、ビルはランドマークとして認められるが、結局はどこまでも不安定な要素を抱え、信じきることのできない陰に怯えて成り立っている…そのことを承知しながらも、なお生き抜いていくためには何が必要か。
 
 物語の示した向きは明確な形で終わらないが、傍に血の通う人間がいることの重みだけは、ひしひしと伝わってくる。

変化のある展開に惹かれたような

2009年06月01日 | 雑記帳
 5月を振り返る。
 ゴールデンウィークが終わったら、とたんにバタバタしはじめてあっと言うまに月末になった…そんな感じだ。

 学校全体としての大きな行事、特に体育関係が続くなかで、子どもたちの活躍が目立った月だった。
 その意味でそれらを大きく取り扱える学校報は定期的に発行できたし、懸案だった学校ブログを開設できたことも大きいと思う。保護者家庭のネット環境がどうなっているか把握はしていないが、一応目安にしているアクセス数に近づいているので、このまま継続していきたい。

 自分の仕事としては、まだまだやらなくてはいけないいくつかは残しているが、あまり焦らずに進めることも立場上大切と感ずるので、のんびりペースを守ってもいいかと思っている。

 とはいえ、そういう自分の位置や年間の中での進み具合、ポイントの見極め…そこだけは敏感にあらねばならない。思考停止状態にならないために毎日何を続けていくかである。
 今月、新たに自分に課したある一つこと。できてはいるがちょっと半端だなと反省する。

 さて、ひとつのバロメーターである読書数は6冊。
 休みの日が多かったわりに、とも思うがまあまあか。その替わり?に山菜採りなど何回か出かけたわけだし、健康的だったともいえるだろうか。

 音楽は全然聴けてないので空白状態…あっ、ただ『音楽寅さん』だけは楽しく見ている。ドラマ、映画系も印象強いものはないのだが、わずかに見ているフジ『Boss』の独特のカメラワーク?編集の仕方が気になっている。それから中旬にBSで放送した『キサラギ』がなかなか楽しい娯楽映画だなと思った。

 無理やりまとめてみると、「変化のある展開」に惹かれたような気がする月でしたかな。