すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

出会うたび「芯」を受け取る

2022年02月14日 | 読書
 変わった書名である。「傘」というと、昔「傘の自由化は可能か」という大崎善生のエッセイ集を読んだ記憶がある。この本もエッセイである。何のことやらと思いつつ読み進めていくと、もし誰かに「傘のさし方が~」と言われたら(極めて異例だが)自分がどう反応するか…それが問われている題名だと得心した。


『傘のさし方がわからない』(岸田奈美 小学館)


 下半身が動かず車椅子生活の母親と、ダウン症の弟が家族である著者。前作でその家族を描き好評だったらしい。書名は「はじめに」に書かれているエピソードで、雨の日に母親がもらした一言である。歩けなくなって身体のバランス感覚が崩れたという事実に直面する。思ってみなかった言葉にどう向き合うのか。

「傘のさし方が、わからない」
 これまで何気なく見ていた景色が、ギュっと愛しくなるひと言を、見逃さないように。



 この結論めくフレーズはつまり「物事を正面から見たままでは、気づけないこともある。側面や背面に、誰かの優しさや悲しさが隠れていて、それに気づけるかどうかで、目の前に広がる物語の姿形が変わる」の指針ととらえていい。著者なりの独特な視点は、まさにマインドフルネスに書き続けることで培われた。




 それにしてもユニークな文体だ。途中で思わず目を通した著者プロフィールに「100字で済むことを2000文字で伝える作家」と書いてあり、それに納得してしまった。いろいろなことを書き殴った印象を見せつつ、こんなふうに落とす。「ちくしょう、わたしがいいたいこと、だいたいBUMP OF CHICKENがいっとる


 「豊かさ」を問いかけ、価値観がふらつきまくっていたことを振り返って、居直りのように著者は結論を出す。「大切なのは『芯』を取り替え続けることじゃないか」。状況に合わせて自分が折れないように、誰かに出会う度に「芯」を受け取りながら「花束」にする、その発想こそが、豊かさと言えるかもしれない。

毎日を上手に回れていますか

2022年02月13日 | 雑記帳
 孫4歳男児が、TVに映る冬季五輪のフィギュアスケートの演技を観ながら、真似をしているつもりかぐるぐると廻っている。テレビでは4回転ナントカと叫んでいても、もちろん床の上では1回2回でその気になっている。爺婆バカの二人が「上手上手」と囃し立てるから、番組が終わっても廻り続けたりしている。


 ところで、五輪の競技にいわゆる「回転系」が増えたものだと改めて思う。フィギュアスケートは伝統があるが、フリースタイルスキーのエアリアル、モーグルやスノーボードのハーフパイプ等々、以前からあるスラロームの回転・大回転とは違う演技としての回転系が本当に目立ってきた。歴史的趨勢なのかな。


 夏季のスケーボー競技もしかり。伝統ある体操競技も、回転数の多さやひねりなどの完成度が主になる。正直「凄い」とは言うが、凄さはわかっていないと自分で思う。まして数年前に急性眩暈症を起こし、今も不安に思っているこの前期高齢者には、実は近づいてはいけない世界。椅子の回転だけで気持ちが悪い。


 せめて、頭の中を廻らせて「人はなぜ回転に憧れるか」の持論を展開してみせるか。まずは、初めて「でんぐり返し」が出来た時(記憶にある者はどのくらい居るのか)、または何かの拍子に転びそうになり、無意識に身体が回ってしまった時、人はこんな感覚を抱くだろう…自分を取り巻く世界が、今くるりと廻ったぞ


 自転しながら公転する地球という星に自分が居ることはわかっている。しかし、そこにただ乗っかっている存在だとも知っている。人は、初めての回転をきっかけに、自ら目の前の世界を廻らせそして再び同じ場所に戻ることに快感を覚える。その回数が多ければ多いほど、角度の変化が激しければ激しいほど募る感覚…


 週遅れながら今年も無事に頂くことができました。感謝!

 毎日の仕事や日常を「回転」と比喩していいかもしれない。特にルーティンのような業務や家事等であればなおさらだ。それを無味乾燥と捉えている者がいても不思議ではない。アスリートの挑む回転と比較したとき、回転者の視線の行方に想いをはせれば「先を見る目」が平凡な「回転」に彩りを与えはしないか。


 人は知っている。生きるとは一方通行であり、けして後戻りできないと…。幼き無垢な頃や輝ける瞬間に回帰したい願いもわかる。しかし、肝心なのは今を回転することだ。着地する自分は変わりないのだが、回る空間と時間に集中する心身はきっとエネルギーを充填する。アスリートだけでなく、今日の自分よ、よく回れ!

先が見えない現実を楽しむ

2022年02月11日 | 教育ノート
 アドリブということにまったく弱いと自覚しているからだろう。『AI支配で人は死ぬ。』の養老氏の語りで、もう一つなるほどなあと思わされた言葉がある。

 よく人は「クリエイティブ」って言うけど、でも、その本当の意味は個性的なんてことじゃなくてね、自分の前に「先が見える道」と「先が見えない道」があったら、「より先が見えないほうを選ぶ」っていうことなんですよ。生きるって、そういうことなんです。


 学校教育で、いわゆる「総合」が始まった時に重視された能力・態度に「見通しを持つ」があった。自分自身も実際に指導にあたるうえで、大きな位置を占めていたと思う。「計画的・意図的」という方向は疑いないものだし、初等教育のねらいとしてふさわしいと今でも考える。しかし、あくまで俯瞰的に捉えねば…。


 11年前つまり2011年の2月11日の夜。あの年、久しぶりに横手にかまくらを観に行っていました。

 大きく括れば、科学と文学の違いのようなものだろうか。再現可能性を求めていくか、一回きりの単発性に浸るか。「ああすれば、こうなる」は人間の多くを支える考えであり、行動習慣だ。乳児期から良くも悪くもそんなふうに躾けられ、学んで、生命やコミュニケーションを保っている。ただ、それは片面でしかない


 初めて経験すること、予想と違うこととの出会いによって、子どもは認識を広げ、深め、鍛えられていく。親や教師など周囲の大人は、そうした出合いに周到な準備をさせ、ソフトランディングをねらって動くのが常だ。その加減は難しいが肝心だと誰でも思うはずだ。だが、今明らかに「過保護」は進行している。


 「学校の本質は予防だ」とかつてわが師が言ったことを覚えている。だからこそ現場は、それを踏まえつつ幅や深さを意識しなければならない。事細かに準備させ、対策を立てることに慣らされた者は脆い。成功体験や自己有用感の育成ばかり積み重ねても、はたして心身に「免疫力」はつくか。自明のことではないか。


 今ほど「先が見えない」と強調される世の中はない。だから「先が見える方へすがろう」とするか。いや「先が見えない」現実を楽しむ(工夫をしよう)と思うのか。これはやはり大人が姿勢を示すべきではないか。PCやスマホ画面に情報は溢れていても、現実の体と言葉で働きかけられるのは、傍に居る者だけだ。

どれだけ豊かにそのスピーチを

2022年02月10日 | 絵本
 昨年末に某小学校5,6年生向けに「高学年だからこそ読める、高学年にこそ読んでほしい『絵本』のススメ」と題して資料を配った。表紙絵を取り込みながら6冊紹介した。来週他校で読み聞かせがあり、高学年対象なので、そこでも配布したいと見直した。1冊だけ差替えてラインナップに加えたのがこれである。


『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』
  (くさばよしみ編 中川学・絵  汐文社) 

  

 南米ウルグアイのムヒカ大統領の話題はTVで観たし、本の存在も知っていた。しかしきちんと読むのは今回が初だ。抽象的な語句は少しあるが、高学年ではあれば伝わるだろう。もちろん、大人が読んでも説得力ある内容だ。やや漫画チックな絵だが、演説のテーマを理解するための補助的な役割は十分果たしている。


 環境と貧困をテーマにした国際会議。小国の大統領の話に最初は関心を抱いていなかった参加者は、その話を聴き大きな拍手を送った。過度の物質文明が人類の危機を招いていることは誰しも語る内容ではあるが、自らの生き方で示しているというエネルギーが会場に響いたのだと思う。そのエッセンスをどう伝えるか。


 「演説を意訳して子ども向けの表現に変えています」と最終ページに小さく書かれてあり、どうしても説明が必要な語句はないし、その前後の文脈で想像できると言っていい。しかしだからこそ、丁寧に全体像を描くような読み方をイメージしたい。「スピーチ」の基本を振り返りながら、ポイントを定め読み込まねば…。


 まず多用している問いかけとそれに続く文章だ。普通は「間をとる」ことが強調につながるが、疑問形は訴えのスタイルでもあり、少し早めに畳み掛ける手法も効果的だろう。なんといってもキーワードの読み方だ。声の大小、緩急、アクセント…声で説得できるか。「命」「発展」「しくみ」「生き方」そして「幸せ」


情報から独立するために

2022年02月08日 | 読書
 『AI支配で人は死ぬ。』で養老氏は「『意見』が先で、『事実』が後になってしまった時代」ということを次のように語っている。少し長いが引用する。

 若い頃はいろいろ理屈を言ってみるけど、そうはいかねえよって年寄りは知っているわけだ。でも、今は逆ですからね。SNSが先だから。「意見」なり「感想」なりが先になってて、「事実」が後追いになっている。そのうち、誰かが「意見」に合わない「事実」を見つけてくると、「事実のほうが間違っている!」と言いかねないよ。


 これを読んだ時ふと思い出した。何で見たか失念したが、商品PR戦術で一番効果があるのは「今、これが売れています」というフレーズだということ。確かにノセラレテ買った記憶もあるし、同様の人も多いのではないか。売れているかどうか不明であり、詳しく調べたり聞いたりしないままに、消費行動に走る。


 厳密には「意見」「感想」とは違うのだが、とにかく観念が、言葉が最初にあって、行動化を仕向けている。データを図化したり、ランキングを示したりすることも蔓延している。それは事実のほんの一部の切り取りに過ぎないのに、SNSで膨張し、固定化されていく。注意していないと、その渦に飲み込まれる。



 『ほぼ日』2/6付「今日のダーリン」で、「マツコ・有吉」の番組のことを紹介していた。「ありがたがられすぎているもの」「評価感高すぎ疑惑」といった話題だ。要は、世間の評価に対して個が取り込まれていくという、昔から変わらない現象だろう。今、情報は情報でしかないことを、自分はどこで示せているか。


 前日2/5付「今日のダーリン」をその観点で読むと面白い。「ほぼ日」では金曜日を「インディペンデントデイ」と名づけ、個人的な研究をする一日としている。糸井は前日に「行列に並びパンを買った」。ある面でまさに事実の後追い行動に見えるが、それを研究として意識的に行うから、独立できるのではないか。

ランドクも撚っていくことで…

2022年02月07日 | 読書
 如月もランドクか、と思いつつ、今年のテーマ「撚る」をもう一度頭に入れて、関連性を見つけながら読んでいきたい。


『挑戦 常識のブレーキをはずせ』
 (山中伸弥・藤井聡太 講談社)

 稀代の研究者と棋士の対談は、堅苦しくなく少し雑談的な印象も受けつつ、「追究者」としての本質が、端的に語られている。特に「限界を自分で決めない」「負けから学ぶ」とよく言われがちな言葉ではあるが、歩んだ道やエピソードからは、そういう思考習慣がいかに身体化されているか伝わってくる。当然ながら頭脳明晰な二人であり、相当の年齢差があっても上手に話題が続いていく。特に「AI」への評価は、現状での限界も踏まえながら、いわば「共存共栄」を目指していくスタンスが共通していると感じた。AIに取り込まれていく世の中は…などとごくありきたりの発想を持つ私のような凡人との違いが、見事にわかる。




『AI支配で人は死ぬ。』
 (養老孟司  ビジネス社)


 「表現者クライテリオン」という雑誌のインタビュー記事がまとめられ、昨年10月発刊された一冊。聞き手である浜崎洋介氏は文芸批評家でもあり、養老氏の著作も深く読み込みながら、話題を展開させている。その主張は明快だ。副題にあるように「システムから外れ、自分の身体で考える」。システムの典型としてAIがあり、社会全体が「AI化」していく危惧が様々な視点から語られている。それは上に挙げた対談本の二人のような対し方とは異なる。システム化全体を疑う、観念の肥大、暴走に対し、個としてどう身を処するか、考えさせられる。キーワードの一つとして「自足」がある。教育に焦点化すれば「『子ども時代』がハッピーだったという『自足』の記憶」の重要性は、今かなり貶められている気がした。

 もう一つ書き留めておきたいことがあり、それは明日へ。

「意味」は生み出すものだ

2022年02月06日 | 読書
 前回からの続き~自分が学校という場で働いたことは、「労働」だったか。「仕事」だったか。

『仕事なんか生きがいにするな』(泉谷閑示  幻冬舎新書)

 昨日書いたことから言えば、この書名は「仕事」本来の意味であったとすれば反語的な表現として成立する。ただ、働くことに意義や価値を見つけるためには、政治や社会の要求との折合いをどうつけるかが最大の焦点であり、そしてそこに限界もある。少なくとも、そう俯瞰することで自分は保てるのではないか。



 さて、もう一度「意味」について考えてみる。この著でなるほどと感心した表現の一つがこれだ。「『意味』は決してどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、『意味を求める』という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるもの」。要は、意味づける。


 これを「人生」に適用することが肝心だとは誰しもわかる。構成する要素はいくつか考えられ、当然「労働」や「職業」も入る。しかしその割合は人それぞれであることを、真から考える必要がある。「労働教」から脱し、本来の「仕事」「活動」そして自己の内面をよく見つめる生活そのものに、軸足を移したい。


 最終章「生きることを味わうために」には、いくつかのヒントが挙げられている。「日常に『遊び』を取り戻す」が最初の提言だ。遊びとは、ニーチェの論を引いて、こう説明される。「創造こそが最高の遊戯であり、『遊ぶ』とはすなわち創造的であること」。それは小児の無心な、熱中した遊びに象徴される姿だ。


 具体的な例として「食事」を挙げている。毎回の食への向き合い方は「味わう」を複層的に考えるために日常的でありかつ非常に本質的だ。総括的なポイントとして「即興性」と「面倒臭いことの歓迎」がある。つまりは計画的、合理的なことに支配されている心身への揺さぶりである。まず、内面に向き合おう。

「意味」と「意義」はちがう

2022年02月05日 | 読書
 この精神科医の書く本はいつも刺激的だ。今回も思わずページをめくる手が止まったことが何度かあった。

『仕事なんか生きがいにするな』(泉谷閑示 幻冬舎新書)


 書名は内容を端的に表わすと言えるが、読者を惹きつけるねらいもあるだろうし、オーバーではないかと予想できる。読了後そう指摘してもいいと思った。しかし「仕事」を「労働」と読み替えれば、これはまさにその通り、ずばり核心をつく。そして副題の「生きる意味を再び考える」は、「意味」とは何かを問う。



 小さい頃によく使ったフレーズとして「意味ない」がある。「意味ないじゃん」や「意味ねえし」など今でも時々耳にする。この著を読み、そのことが浮かんできた。「『意味』と『意義』の取り違え」という著者の指摘に頷く。「意味ない」のような言い回しは、実は「有意義かどうか」を問うている場合が全てだ。


 現代における人間性の喪失は、著者が語るところの「儲かるとか役に立つとかいった『意義』や『価値』をひたすら追求する『資本主義の精神のエートス(※性格や慣習等)』」によってもたらされていることは否定できない。そして模索すべきは「『意味』が感じられるような生き方」と言う。意味という語は深い。


 辞書では解決できないが、この語に「」が入っている意味(笑)は本当に素晴らしい。つまり、生きる意味とは生活を「味わう」ことに他ならないのではないか。具体的には「働く」というテーマは避けて通れない。引用されているユダヤ人の哲学者アレントの文章「活動的生活」の分類は、それを考える視点になる。


 要約すれば、「労働」は生命や生活を維持するための作業、「仕事」は永続性のある何か、道具や作品等を生み出す行為、そして「活動」は社会形成に関わる働きかけや芸術等表現行為を指している。この階層づけが人間らしい営みと重なることはわかるだろう。そして、社会の進展はこの階層を転倒させてしまった。


 つまり大量生産が分業化を促し、本来「仕事」の持っていた作品的要素を奪い取り、「労働」によって製品化し消費されていく世界が進行した。人は「労働する動物」に成り下がったという。職業として教育の場にしか携わらなかった自分だが、この質的な変化の進行は、40年のキャリアで数多く感じ取った。
 つづく

節分、心内の「鬼」を認めよ

2022年02月03日 | 雑記帳
 昨日は除籍資料検討に没頭した。著名な作家の全集類に収められている作品の単行本類(ほとんど昭和期)は当然候補に挙がる。それらを開いていくとホコリが舞い、一足早い花粉症かと思うほどだった。明けて今日は節分。勤務日ではないが、以前から「鬼」の本は紹介したいと考えていたので、ブログアップした。


 作業中に思い出したのは、かつて国語教科書に載っていた『おにの話』という教材文。確か3年生の説明文だった。光村図書のサイトで調べたら昭和52年度版から平成元年度版までに掲載されていた。とすると自分としては2回しか扱っていないのか。印象が残っているのは当時一番読解に力を入れていたからか。


 2階書棚にある当時の学級通信綴りを捲ってみた。実践そのものはなかったが1988.2.3付で「節分の日に…『おにの話』をもう一度読む。」と題して、文章を引用していた。季節行事を知りその訳を理解する内容は中学年にはふさわしい。人々の願いと実際の慣習を考えるきっかけとなるだろう。この結びを噛みしめたい。

「節分のおには、人々にとっていやなことを、一人で全部引き受けて、にげていくのです。つまり、わたしたちの身代わりになってくれているわけです。」

 このご時世における「鬼」を外部に求めるとすれば「コロナ」という語がほとんどか。その切なる願いはともかく、本当の「鬼」はやはり私たちの心の中にあると言わざるを得ない。そしてそれは、追い払われない要素なのだ。仏も鬼も、光も闇も、皆内部に棲まわせていると認めることから始めるべきだと思う。



 と、それはともかく、開いた昔の学級通信が面白い。あまりに活動的(笑)で目まぐるしいほどだ。おそらく3年生ということも一つのポイントだと思うし、自ら作ったサークルが軌道に乗り、いわゆる法則化運動との関わりも増えた時期と重なっているからだろう。1年分を読み終えたら、また書き散らしてみたい。

雪と本にまみれる書痴未満

2022年02月02日 | 雑記帳
 2月だ。結局、積雪量は昨年に追いついてしまった。思い出せば昨冬は前年のうちに積もった雪と正月頃が連続で酷く、続く作業に疲れた印象がある。今年の降り方は、今のところまでは断続的だったし、雪下ろし等も順調に進んだ。あと半月程度が相場と思うが、その間、お天道様のご機嫌が悪くなりませんように。



 『ちくま』の先月号で書評を読み、気になったので久しぶりに注文したちくま文庫新刊が届く。書名は「書痴まんが」。漫画のアンソロジーで、本好きの人々がテーマのようだ。「書痴」という語は初めて見る気がしたが、広辞苑にはきちんと載っていた。その意味は「本ばかり読んでいる者をののしっていう語」。


 多少その傾向が…、さて今日から図書館書架で除籍検討に入る。小さな町の施設ではどうしてもスペースが手狭になってくるので、定期的に入替が必要になる。本来の私の業務はその点検・決済だろうが、職員不足な現状もあり、作業段階から参加することにした。担当はNDC913。いわゆる日本文学~小説である。


 館で定めてある基準に従い、量的な目安を決めて取りかかる。しかし当然ながら機械的には進まない。「汚破損が著しく、以後の利用が不適当」という一番のポイントはどうしても発刊時期と関わるが、単純にはいかない。資料的な価値という観点は専門分野になるし、明確な区分があるわけでもない。と言いつつ…。


 計4時間弱を費やし、半分ほどの書架を終了。残りは明日だ。もし「書痴」なら、こんな作業はある面で苦痛だろうなと想像する。実際、多量の本を開くが読み進めるのでなく、外観や後付で判断するのみだからだ。再来週には蔵書点検。バーコードを読み取る作業に入っていく。雪と本にまみれる2月となるか。