生家が無人の家になってから、二十年が過ぎた。
普段は住んでいないけれど、ときどき任された者が来て風を入れたり、荒れないようにしているという空き家は結構多い。
どういうスタンスでどのようにもっていくのが安上がりか、皆のためにはどういう選択が良いか、というようなことで悩んだり迷ったりしている『家』が多いのかもしれない。
皆のためにという言葉が、どの程度の範囲なのかも難しい問題。
そんなことはともかく、無人の家が他と決定的に違うのは遊びの部分と言おうか、ゆとりの部分だ。
花が敷地内に咲いているかどうかということが大きいように思う。
この朝顔は、やたらめったら草刈機でなぎ倒してしまうのを残念がって、生家の前の人がもってきてくれた。
私の農事の先生なのだが、花の苗をくれるようなことを想像させにくい人で、意外だった。
化成肥料をやったのですくすく伸びて一人前の花を咲かせている。
八月はこのお盆期間だけの滞在の私とグッドタイミングな咲きよう。
葉見ず花見ずの夏水仙も、葉っぱの時に邪険に刈り払ったはずなのに、この時季にニョキニョキ茎だけ伸ばして花を咲かせている。
秋桜(コスモス)は蒔く時季が遅かったし、草ぼうぼうのところをいくら徹底的に刈った後に蒔いても、すぐ生える雑草に負けるのではないかと言われていた。
それなのに、半分くらいの苗が育っているようでポツポツと咲き始めた。
これも化成肥料が効果的だったようだ(野菜作りの畑には化成肥料や農薬は使わない)。
無人ではないというアピールのためにも、花は咲かせておきたい。
秋桜はニホンミツバチのことを考えてのことだったし、朝顔はせっかくだからという動機でしかなかった。
でも秋桜はこれから毎年咲いてくれるだろうし、先生のさりげない親切は含蓄があってありがたい。
花とともに我が生家は有人の家になっていく。