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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本が届くまで。

2010-02-01 | 前書・後書。
産経新聞2010年1月31日の書評欄を見ていたら、
あれ、谷沢永一氏が書評を書いている。
これ、さっそく本を注文しなきゃ。
その「渡部昇一の人物戦後史 裸の総理たち32人の正体」(李白社 1995円)は
どう書評されているか。
こりゃ、さっそく引用しておきましょう。そうしましょう。
題して「現代版『貞観政要』」とあります。
うん。渡部氏と谷沢氏の対談「上に立つ者の心得」を楽しく読んだ者にとって、これは気になるわけです。
はじまりは
「近頃珍しい読み応えのある大著である。」とあります。
ひきつづき
「戦後の宰相32人を俎上に乗せ、縦横無尽に切りまくっている。リーダーとは何か、国益とは、外交とは、はたまた人間の運とは何かまで活写している。・・・・人物分析は著者の体験と客観的な歴史認識に貫かれている。・・・種本は「貞観政要」。この本は唐の太宗が諫議大夫や諫臣たちと交わった対談をまとめたものである。・・『皇帝・帝王とはどうあるべきか』『政治はどうするべきか』が、極めて具体的に記されている。いわば高位にある者が政治を執り行う場合に心得るべき要諦がすべて書いてある百科事典。そう、『裸の総理たち―』は政治・経済を運営する人たちへ向けての『現代版 貞観政要』なのである。」

鳩山首相の国会答弁を聞いていると、
いったい、何が欠けてしまったのか。
さらに、それをどう指摘し、考えてゆくべきなのか。
あれこれと思うのでした。そこから、
この未読本の内容をあれこれ思い浮かべてみるのでした。

めずらしく、谷沢永一氏が新聞の書評をかいている。
短い文に、ちょっと情報を盛るのに、よく私には読解が及ばないところではあります。
それでも、こうして書評を書かれている一冊。
気になる、ということで、本の注文をしたのでした。

さて、読了すると沈黙を余儀なくされる本というのがあります。本は読後よりも、読む前の方が楽しかったりする私なので、こういうのもご勘弁ください。
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卒業論文。

2010-02-01 | 他生の縁
昨年。外山滋比古著「思考の整理学」を読んで、外山氏のエッセイに興味を持ちました。ちなみに、「思考の整理学」では、卒業論文が重要なキーワードになっておりました。それからは、「思考の整理学」ということば文中にでてくると、つい着目します。たとえば、外山滋比古著「中年記」(みすず書房)に

「『知的創造のヒント』という本になった。・・・それから数年して、『思考の整理学』を出した。これは思考をより技術的に扱っている。セレンディピティという発見に興味をもっていたころで、偶然を重視している。醗酵もそうだが、アイディアは締切りをしらない。期日のある卒業論文などには役に立たないのはそのためもある。・・・」(p108)

ここから、福原麟太郎氏へと軸足をもっていこうと思うのでした。
外山滋比古著「日本の文章」(講談社学術文庫)に、清水幾太郎氏を語る際、なにげない様子で福原麟太郎氏が登場しておりました。こうです。

「学生時代からずっと師事している福原麟太郎先生の麗筆は広く知られている。・・・先生の随筆は残らず読んだが、まるで別世界のようで、真似てみようという気も起らない。人間わざとは思われなかった。・・」(p72)

う~ん。「セレンディピティと福原麟太郎」というテーマが思い浮かびます。
ここは、そのテーマとは別世界の卒業論文について。
「中年記」には、こんな箇所がありました。


「教師とは因果な商売である。ロクにものを書いたこともない若造が、卒業をひかえた学生に、こともあろうに、『論文の書き方』を教えなくてはならない。もちろんできるわけがない。・・・・福原先生が、卒業論文を書こうとしていたわれわれ学生に話されたアドヴァイスが実によかったと思い返した。

○まず、テクストを精読すること。(信じられないことだが、テクストをよく読まない論文を書くものがある。)
○気のついたところ、興味をもった箇所、疑問点などをノートにとる。
○テーマを絞る。
○ 参考書を一つか二つ読む。(これを先に読むと、参考書の解説のような論文、ないしは盗用論文に近いものになる。)
○ まとまったら、一気呵成に下書きを作る。ただし、清書には時間をたっぷりとれ。うっかりすると締切りに間に合わなくなる。

こんな趣旨を、受け売りで話したが、いかにも迫力がない。借りものだから仕方がないだろうと甘えていたが、考えてみれば情けない話である。論文の書き方を自分流で考えてみようと思った。」(p101~102)

そういえば、この中の
「参考書を一つか二つ読む。(これを先に読むと、参考書の解説のような論文、ないしは盗用論文に近いものになる。)」が気になります。
吉田健一氏の言葉に、こんなのがありました。

「まだ学生のころ先輩に、そのものよりもそのものについて書いたものを読む癖を付けないようにしろと言われたのを思い出す。『ファウスト』の代りにその解説を、あるいは『資本論』は読まずにそのダイジェストを持って要領よくやった積りでいることを指すのである。」(「吉田健一集成・別巻」新潮社1994年。p175)

福武書店の「福原麟太郎随想全集7 思い出の記」に「卒業論文」という2~3ページほどの短文が入っておりました。せっかくですから、そのはじまり。

「私も一遍粗末な卒業論文というものを書いたことがあるが、その後は、ひとの書いた論文を見るばかりで、借金の方が多くなっているという心持がする。ひとの論文を見るなら自分も始終論文を書いているべきである。そんな理屈なはいけれど、こっちも論文に苦心しているという身の上でひとの論文に臨まなければ、本当にひとの論文は読めないという気持である。卒業論文は一生に一つしか書かなくとも、その後、自分は、つねに研究をつづけて、いくつも書いているというのでなければ、ひとの論文を見る資格はないのだ。それは教師の心得である。」

うん。ここで引用をやめちゃうのは惜しいので、ひきつづき、貴重なウィリアム・エンプソン氏が登場する箇所も引用しておきます。


「提出されてくる論文なるものは、種々さまざまだ。卒業論文ではなかったが、ふだんの試験の英文学の単位を取る小論文に、その一部を英国の週刊誌の文学批評から取って、だまって出したのがいた。私に出したのなら、私は、うまうまと、だまされていたのかもしれないが、相手が悪かった。現在では英文壇随一の詩人評論家といわれるウィリアム・エンプソンがまだ若い昔であった。私のところへそれを持って来て『君、この文章は、誰だか知らんが、おそらく筆の立つ、年期を入れた評論家の書いたもんだ。日本の学生などにできる芸当じゃない』といった。そんなのもある。そんなのには、だまされて感心していればすむが、だまされようにも、だまされまいにも、意味のよくとれないのがある。論文読みは辛い。」

と、ここまで引用してくると、ですね。
外山滋比古氏の言葉がもう一度思い浮かぶのでした。
この箇所「先生の随筆は残らず読んだが、まるで別世界のようで、真似てみようという気も起らない。人間わざとは思われなかった。」
この味わいを知るには、「卒業論文」という短文の全文を引用しちゃうにしかず。
ということで、あと最後まで引用。

「それは英語で書いた論文だから、そういうことが起るのだが、日本語で書いてもよろしいということがある。そうすると女子学生などで、私の著書に書いてあるとおりを、文章もそのまま拝借して、つづり合わせて出すのがいる。妙な心理である。日本語で書いてあれば、しかし、大抵は意味が解るが、さて解ってみると、何という支離滅裂であることかと、途方に暮れるようなものに出くわす。しかし同情してもよい。とにかく苦心しているのだ。だが総体において、ふだんから指導しておいて、いよいよ卒業論文にして出されると、できぐあいはどうかしらと、悪いのは悪いなりに楽しみなものである。だから、ふだん手がけている学生の論文を読むのは、本当は苦しいものではない。
論文は正直なのが何よりである。だましたり、ごまかしたりする料簡が見えると憤然として腹が立つ。だますなら、すっぽりだましてくれと、いきまく。そのうちに良い論文に出くわす。ああ、うまいもんだな、偉い学生もいるものだなと、三嘆する。おれよりも上等の頭をしていると感服させるのが時々あるものだ。そういう時は、まさに教師みょうが、という気がして、ありがたいと思う。ある年、英語はいかにもまずいが、芝居のことは実によく解っていると、感心した、イギリスの劇作家を研究した論文が出たことがある。その晩私は興奮してねむれなかった。」

とうとう全文引用してしまいました。
ちなみに、福原麟太郎氏の論文とういのは、どういうものだったのか。
ちらりと、吉田健一氏の文にありました。

「ドナルド・キイン氏から聞いた話では日本人が外国語で書いたものでその専門のものにとつて必読の書になつてゐるのは二つしかなくてその一つは矢代幸雄氏のボティチェリ研究、もう一つが福原さんのグレイの詩に就ての書誌学上の研究だといふことだつた。」
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