福原麟太郎著「シェイクスピア講演」(講談社学術文庫)の解説は、外山滋比古氏が書いておりました。ということで、興味をもって注文。では、外山氏の解説をつまみぐい。
「この本はシェイクスピアに近づこうとするとき、まずははじめに読むのにもっとも適している。読者にこれほどあたたかく深切な理解をあたえる手引はほかにないといってよいほどである。」
「著者の英文学は、難しいことでもいたって平明に、しかも興味深く表現するという、わが国の学者には珍らしいスタイルをもっているのでよく知られているが、この本はそのめざましい実例であると言ってよい。」
「著者はつとにすぐれた文章家としてきこえたが、話芸においても卓越し独自の風格をそなえていたことがこの講演集によってもよくわかる。」
「いかにもやさしそうに見える表現の中に、重要なことはしっかりおさえ、深い洞察を包みこんでいる。・・・著者の本を読んで英文学を志した学生がすくなくない。」
さて、おもむろに外山氏は、こう書き始めております。
「著者の英文学の特色は『おもしろさ』にある。・・この本の『おもしろさ』はものの見方にもとづくおもしろさ、言いかえると、ヒューマーのおもしろさである。(ついでにひとこと加えると、著者はけっしてユーモアと書かなかったし、言わなかった。編集者がうっかりユーモアとしたりすると、かならず訂正した)
本書の中でも『ヒューマーというのは人間であるがゆえに持っているもののおかしさという点をつかまえたものであるといわれております』という定義が見られる。・・・
インタレスティングは日本語のおもしろさとすこし違うところがあって、表面的なおもしろさではなく、より深く心にふれる興味について用いられる。この本から受けるしみじみとした感銘はインタレスティングというおもしろさである。読むものの心を動かすということで、この本自体が一箇の文学になっているというわけである。」
つぎ引用。
「ところで、この本にはシェイクスピアの作品について目のさめるような解釈が随所に見られるが、創見だからといってとくに強調されているわけではない。低い声で静かに語られていることもあって、うっかりすると見落とされかねない。」
この言葉。外山氏が福原麟太郎氏の文からうける印象というのは、
私が外山滋比古氏の文からうける印象と重なってくるのでした。
「この本はシェイクスピアに近づこうとするとき、まずははじめに読むのにもっとも適している。読者にこれほどあたたかく深切な理解をあたえる手引はほかにないといってよいほどである。」
「著者の英文学は、難しいことでもいたって平明に、しかも興味深く表現するという、わが国の学者には珍らしいスタイルをもっているのでよく知られているが、この本はそのめざましい実例であると言ってよい。」
「著者はつとにすぐれた文章家としてきこえたが、話芸においても卓越し独自の風格をそなえていたことがこの講演集によってもよくわかる。」
「いかにもやさしそうに見える表現の中に、重要なことはしっかりおさえ、深い洞察を包みこんでいる。・・・著者の本を読んで英文学を志した学生がすくなくない。」
さて、おもむろに外山氏は、こう書き始めております。
「著者の英文学の特色は『おもしろさ』にある。・・この本の『おもしろさ』はものの見方にもとづくおもしろさ、言いかえると、ヒューマーのおもしろさである。(ついでにひとこと加えると、著者はけっしてユーモアと書かなかったし、言わなかった。編集者がうっかりユーモアとしたりすると、かならず訂正した)
本書の中でも『ヒューマーというのは人間であるがゆえに持っているもののおかしさという点をつかまえたものであるといわれております』という定義が見られる。・・・
インタレスティングは日本語のおもしろさとすこし違うところがあって、表面的なおもしろさではなく、より深く心にふれる興味について用いられる。この本から受けるしみじみとした感銘はインタレスティングというおもしろさである。読むものの心を動かすということで、この本自体が一箇の文学になっているというわけである。」
つぎ引用。
「ところで、この本にはシェイクスピアの作品について目のさめるような解釈が随所に見られるが、創見だからといってとくに強調されているわけではない。低い声で静かに語られていることもあって、うっかりすると見落とされかねない。」
この言葉。外山氏が福原麟太郎氏の文からうける印象というのは、
私が外山滋比古氏の文からうける印象と重なってくるのでした。