板坂元著「何を書くか、どう書くか」(php文庫)に
「『面と向かって話すつもり』で書く」という箇所があるのを思い出します。
そこに、こうある。
「第二次世界大戦中に『タイム』誌で大活躍したジャーナリストで、今では歴史家とも言われているT・H・ホワイトは、最近『歴史を求めて』という自伝を書いたが、その中で彼は、ハーバード大学で学問的にも人間的にも彼を援助してくれたフェアバンク教授についてふれ、『自分はフェアバンク教授に読んでもらうということを頭に置かないで、書いたことは一度もない』と言っている。
フェアバンク教授は、現在アメリカにおけるアジア問題の権威だが、若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。ホワイトの文は、名文として広く愛読されているが、その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本精神があったのである。・・・」(p60)
ちなみに、このもとの単行本は1980年に出ており、
この文庫は、1997年。いまはもう絶版で古本でしか手にはいらないだろうなあ。
この文庫の1ページ前に、こんな箇所もありました。
「あるジャーナリストが『文章を書くコツは、自分が尊敬する先輩や友人に、個人的な手紙を書くつもりで書け』と言っている。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは、われわれは前もってよく知っている。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくどと書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起こしてしまうだろう。」
そういえば、福原麟太郎著「シェイクスピア講演」の文庫解説を外山滋比古氏が書いていた中に、こうあったのを思いうかべるのでした。
「ところで、この本にはシェイクスピアの作品について目のさめるような解釈が随所に見られるが、創見だからといってとくに強調されているわけではない。低い声で静かに語られていることもあって、うっかりすると見落とされかねない。」
この言葉。外山氏が福原麟太郎氏の文からうける印象は、私が外山滋比古氏の文を読みながらうける印象と重なってくるのでした。
「『面と向かって話すつもり』で書く」という箇所があるのを思い出します。
そこに、こうある。
「第二次世界大戦中に『タイム』誌で大活躍したジャーナリストで、今では歴史家とも言われているT・H・ホワイトは、最近『歴史を求めて』という自伝を書いたが、その中で彼は、ハーバード大学で学問的にも人間的にも彼を援助してくれたフェアバンク教授についてふれ、『自分はフェアバンク教授に読んでもらうということを頭に置かないで、書いたことは一度もない』と言っている。
フェアバンク教授は、現在アメリカにおけるアジア問題の権威だが、若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。ホワイトの文は、名文として広く愛読されているが、その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本精神があったのである。・・・」(p60)
ちなみに、このもとの単行本は1980年に出ており、
この文庫は、1997年。いまはもう絶版で古本でしか手にはいらないだろうなあ。
この文庫の1ページ前に、こんな箇所もありました。
「あるジャーナリストが『文章を書くコツは、自分が尊敬する先輩や友人に、個人的な手紙を書くつもりで書け』と言っている。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは、われわれは前もってよく知っている。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくどと書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起こしてしまうだろう。」
そういえば、福原麟太郎著「シェイクスピア講演」の文庫解説を外山滋比古氏が書いていた中に、こうあったのを思いうかべるのでした。
「ところで、この本にはシェイクスピアの作品について目のさめるような解釈が随所に見られるが、創見だからといってとくに強調されているわけではない。低い声で静かに語られていることもあって、うっかりすると見落とされかねない。」
この言葉。外山氏が福原麟太郎氏の文からうける印象は、私が外山滋比古氏の文を読みながらうける印象と重なってくるのでした。