郵便。
2010-02-06 | 手紙
福原麟太郎随想全集3「春のてまり」福武書店。
そこに「郵便」と題した文あり。
こうはじまっております。
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。
返事はなかなか書けないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達夫の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。・・・」
うん。外山滋比古氏のエッセイを読むと、同様の言葉をみつけることが可能なのを面白く思うのでした。胸襟を開いた言葉が、お弟子さんに自然と、同意とともに、その言葉のバトンが受け継がれていっているような按配みたいに思えます。
さて、福原麟太郎氏の「郵便」には、
こんな箇所もあります。
「英国では18世紀から19世紀の半分までの150年が手紙文学の黄金時代であった。その先蹤として、トマス・グレイ、あの『墓場にて詠める挽歌』というエナヂーの詩人は、手紙をたくさん残している。グレイは詩の数が少なく、13篇ぐらいしか無い。ほかの断片を合わせても、一冊にはならないので、手紙をたくさん挟んで、長い伝記をつけ、それへ詩を添えて出した。それは詩人自身でなく、メーソンという友人が詩人の死後、編集したのだが、それが俑をなして、手紙を材料とした長い伝記を書き、手紙に内面的自伝をさせる方法が起ったといわれる。グレイにしてもクーパーやラムにしてもはなはだ自由に、うそを吐かないで、しかも、ヒウマーを含んだ手紙を書いている。そして自然身の上話をしている。そういうところに面白味があるので、つまり、随筆、いわゆるエッセイ的な興味を多分に持っている。・・・この頃われわれの手紙に、そんなのんきなのは、はなはだ少ない。」
「ふたたびラムの話になるが、ラムの手紙の面白さは無双である。おそろしく長い手紙を出す。何日もかかって一本の手紙を書いている。P・S・すなわち『追伸』として、またもう一つくらいの長さになる文句を書き続けている。用事などなくてもよい。・・・」
どうやら、福原麟太郎氏にとっての手紙というのは、重要な意味を含んでいたようです。
さて、同じ福原麟太郎随想全集の8巻月報に福田恆存氏の文が掲載されておりました。
そこに、こうある。
「私は英文学の他のどの先輩よりも先生を身近かに感じたのである。私は直ぐ思った、『この人は英国のために英文学を研究した人ではない、日本の文学を豊かにするために英文学を研究した人だ』と。・・・」
日本の文学を豊かにするためにというのは何だろうと、
「郵便」の文を読みながら、思うわけなんです。
そこに「郵便」と題した文あり。
こうはじまっております。
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。
返事はなかなか書けないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達夫の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。・・・」
うん。外山滋比古氏のエッセイを読むと、同様の言葉をみつけることが可能なのを面白く思うのでした。胸襟を開いた言葉が、お弟子さんに自然と、同意とともに、その言葉のバトンが受け継がれていっているような按配みたいに思えます。
さて、福原麟太郎氏の「郵便」には、
こんな箇所もあります。
「英国では18世紀から19世紀の半分までの150年が手紙文学の黄金時代であった。その先蹤として、トマス・グレイ、あの『墓場にて詠める挽歌』というエナヂーの詩人は、手紙をたくさん残している。グレイは詩の数が少なく、13篇ぐらいしか無い。ほかの断片を合わせても、一冊にはならないので、手紙をたくさん挟んで、長い伝記をつけ、それへ詩を添えて出した。それは詩人自身でなく、メーソンという友人が詩人の死後、編集したのだが、それが俑をなして、手紙を材料とした長い伝記を書き、手紙に内面的自伝をさせる方法が起ったといわれる。グレイにしてもクーパーやラムにしてもはなはだ自由に、うそを吐かないで、しかも、ヒウマーを含んだ手紙を書いている。そして自然身の上話をしている。そういうところに面白味があるので、つまり、随筆、いわゆるエッセイ的な興味を多分に持っている。・・・この頃われわれの手紙に、そんなのんきなのは、はなはだ少ない。」
「ふたたびラムの話になるが、ラムの手紙の面白さは無双である。おそろしく長い手紙を出す。何日もかかって一本の手紙を書いている。P・S・すなわち『追伸』として、またもう一つくらいの長さになる文句を書き続けている。用事などなくてもよい。・・・」
どうやら、福原麟太郎氏にとっての手紙というのは、重要な意味を含んでいたようです。
さて、同じ福原麟太郎随想全集の8巻月報に福田恆存氏の文が掲載されておりました。
そこに、こうある。
「私は英文学の他のどの先輩よりも先生を身近かに感じたのである。私は直ぐ思った、『この人は英国のために英文学を研究した人ではない、日本の文学を豊かにするために英文学を研究した人だ』と。・・・」
日本の文学を豊かにするためにというのは何だろうと、
「郵便」の文を読みながら、思うわけなんです。