崩れ。
2011-10-04 | 地震
畑村洋太郎著「未曾有と想定外」(講談社現代新書)の
第三章「日本で生きるということ」に
「本書で何度か取り上げている寺田寅彦はこんなことを書いています。
『災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。(略)しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう』(「津浪と人間」より)
まさにその通りだと思います。大きな災害というのは、ちょうど人間が忘れるくらいの周期で繰り返されるというのがポイントです。」(p153~154)
うん。このあとがさらにポイントなのですが、それはそれとして、
この章で幸田文への言及がありました。
「『崩れ』を知るのに是非おすすめなのが、明治の文豪・幸田露伴の娘、幸田文さんが70歳を過ぎてから、立山カルデラや大谷嶺など、各地の崩れの現場を訪れて書いた『崩れ』(講談社文庫、1994年)です。この作品は、文学者らしい筆致で崩れの様子を見事に描いた名随筆です。」(p166)
今回は地震津浪が注目されているせいか、あまり幸田文への言及をしていない方ばかりのなかで、畑村洋太郎氏は広い視野から幸田文までとりこんでおり印象に残りました。
そういえば「婦人之友」5月号に、
青木玉・青木奈緒の母娘対談が掲載されていたのでした。
編集者は、最初にこう書いておりました。
「震災から1週間。まだ余震の続く中、東京小石川の青木奈緒さんのお宅を訪ね、幸田文さんから三代にわたり日本の『崩れ』の場を見つめてきたお二人にお話していただきました。」
そうそう。幸田文「崩れ」は昭和51年~昭和52にかけて、「婦人之友」に連載されたものでした。青木奈緒著「動くとき、動くもの」の「はじめに」に、こんな箇所がありました。
「今、四半世紀という区切りでふり返っているのは、私の祖母・幸田文が晩年に日本各地の崩壊地を見て歩き、それを雑誌に連載していた頃から過ぎた時間です。全14回にわたる連載を終えたあと、祖母はまだ訪ね足りないところがあったらしく、原稿にも手を加える心づもりでおりました。けれど、それを果たせぬまま、生前に一冊にまとめられることなく終わってしまったのです。祖母が逝ったあと、残された原稿を本にする仕事を私の母が引き継ぎ、初めに出された本が『崩れ』でした。何しろ祖母の本が出なくなってずいぶんの時間がたっていましたから、どんな方がお手にとってくださるかもわからない、おっかなびっくりの心細い出版だったと聞いています。・・・」
第三章「日本で生きるということ」に
「本書で何度か取り上げている寺田寅彦はこんなことを書いています。
『災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。(略)しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう』(「津浪と人間」より)
まさにその通りだと思います。大きな災害というのは、ちょうど人間が忘れるくらいの周期で繰り返されるというのがポイントです。」(p153~154)
うん。このあとがさらにポイントなのですが、それはそれとして、
この章で幸田文への言及がありました。
「『崩れ』を知るのに是非おすすめなのが、明治の文豪・幸田露伴の娘、幸田文さんが70歳を過ぎてから、立山カルデラや大谷嶺など、各地の崩れの現場を訪れて書いた『崩れ』(講談社文庫、1994年)です。この作品は、文学者らしい筆致で崩れの様子を見事に描いた名随筆です。」(p166)
今回は地震津浪が注目されているせいか、あまり幸田文への言及をしていない方ばかりのなかで、畑村洋太郎氏は広い視野から幸田文までとりこんでおり印象に残りました。
そういえば「婦人之友」5月号に、
青木玉・青木奈緒の母娘対談が掲載されていたのでした。
編集者は、最初にこう書いておりました。
「震災から1週間。まだ余震の続く中、東京小石川の青木奈緒さんのお宅を訪ね、幸田文さんから三代にわたり日本の『崩れ』の場を見つめてきたお二人にお話していただきました。」
そうそう。幸田文「崩れ」は昭和51年~昭和52にかけて、「婦人之友」に連載されたものでした。青木奈緒著「動くとき、動くもの」の「はじめに」に、こんな箇所がありました。
「今、四半世紀という区切りでふり返っているのは、私の祖母・幸田文が晩年に日本各地の崩壊地を見て歩き、それを雑誌に連載していた頃から過ぎた時間です。全14回にわたる連載を終えたあと、祖母はまだ訪ね足りないところがあったらしく、原稿にも手を加える心づもりでおりました。けれど、それを果たせぬまま、生前に一冊にまとめられることなく終わってしまったのです。祖母が逝ったあと、残された原稿を本にする仕事を私の母が引き継ぎ、初めに出された本が『崩れ』でした。何しろ祖母の本が出なくなってずいぶんの時間がたっていましたから、どんな方がお手にとってくださるかもわからない、おっかなびっくりの心細い出版だったと聞いています。・・・」