今日の産経新聞2面下に、
月刊雑誌「新潮45」の広告が載っておりました。
はじめにこうあります。
「落選させたい政治家12人」
たとえば
「言訳ばかりの権力亡者 菅直人」保阪正康
「思い出したくもない史上最低の総理 鳩山由紀夫」福田和也
「調子の良さだけは一流の厚顔無恥 原口一博」適菜収
「何が政治主導か 三百代言 枝野幸男」佐々淳行
うん。このタイトルだけで、溜飲が下がる不思議。
実際に読んでもいないのにタイトルだけで浮き立つ不思議。
ということで、
たのしいと、あれこれと連想がはたらきます。
まず思い浮かんだのは、
「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)という追悼集でした。
ぱっとひらいても、
あれこれと、引用してみたい箇所があるのです。
こんなのはどうでしょう。
石井昂「タイトルがすべて」(p177~183)に
「『売れる本じゃないんだよ、買わせる本を作るんだ』
『編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ』
『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』
次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。我田引水になるが、新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』
『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」
もう一人。
伊藤幸人「人間、いかに志高く」(p167~172)
それは「私の手元に、『新潮45 会議ノート』と題した、いささか色褪せた五冊のノートが残っている。」とはじまっておりました。
「編集会議とはいうものの、実態は、齋藤さんの独演会である。・・当時、齋藤さんはすでに七十歳を越えておられたはずだが、その存在感、人間的な迫力はすさまじいものがあった。」
「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下編集スタッフ四名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』
『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』
強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・・
齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。実際、『新潮45』の編集会議においても、齋藤さんが、いかにタイトルにこだわっているかを痛切に思い知らされると同時に、雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』・・・・」
今日の新聞の雑誌広告「新潮45」のタイトルに、拍手しながら、
齋藤イズムの健在を、同時によろこぼうではありませんか。
ちなみに、
雑誌広告の右端が
特集「落選させたい政治家」なら
広告の左端はというと、
特集「『生活保護』天国ニッポン」
「足立区財政の2割は生活保護費に消えている」橘由歩
「これが日本の未来?
イギリスの『働かない若者たち』」マークス寿子
となっておりました。
つい、買いたくなる。
月刊雑誌「新潮45」の広告が載っておりました。
はじめにこうあります。
「落選させたい政治家12人」
たとえば
「言訳ばかりの権力亡者 菅直人」保阪正康
「思い出したくもない史上最低の総理 鳩山由紀夫」福田和也
「調子の良さだけは一流の厚顔無恥 原口一博」適菜収
「何が政治主導か 三百代言 枝野幸男」佐々淳行
うん。このタイトルだけで、溜飲が下がる不思議。
実際に読んでもいないのにタイトルだけで浮き立つ不思議。
ということで、
たのしいと、あれこれと連想がはたらきます。
まず思い浮かんだのは、
「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)という追悼集でした。
ぱっとひらいても、
あれこれと、引用してみたい箇所があるのです。
こんなのはどうでしょう。
石井昂「タイトルがすべて」(p177~183)に
「『売れる本じゃないんだよ、買わせる本を作るんだ』
『編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ』
『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』
次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。我田引水になるが、新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事によるといって過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』
『タイトルがすべてだ』
私はいま呪文のようにそれを唱えている。」
もう一人。
伊藤幸人「人間、いかに志高く」(p167~172)
それは「私の手元に、『新潮45 会議ノート』と題した、いささか色褪せた五冊のノートが残っている。」とはじまっておりました。
「編集会議とはいうものの、実態は、齋藤さんの独演会である。・・当時、齋藤さんはすでに七十歳を越えておられたはずだが、その存在感、人間的な迫力はすさまじいものがあった。」
「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下編集スタッフ四名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』
『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』
強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・・
齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。実際、『新潮45』の編集会議においても、齋藤さんが、いかにタイトルにこだわっているかを痛切に思い知らされると同時に、雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』・・・・」
今日の新聞の雑誌広告「新潮45」のタイトルに、拍手しながら、
齋藤イズムの健在を、同時によろこぼうではありませんか。
ちなみに、
雑誌広告の右端が
特集「落選させたい政治家」なら
広告の左端はというと、
特集「『生活保護』天国ニッポン」
「足立区財政の2割は生活保護費に消えている」橘由歩
「これが日本の未来?
イギリスの『働かない若者たち』」マークス寿子
となっておりました。
つい、買いたくなる。