いままで、とりとめのない読書を、
これじゃダメだと思っているところがありました。
うん。そのたびに、読書を狭めよう、狭めようと、
する傾向が私にはありました。
ようするに、あるところまでゆくと、
とりとめもなくなる。そのうち、ほっぽり出すことになる。
というのが、私の毎度のお決まりのコースでした。
何とも分かりやすい、読書傾向だなあ(笑)。
その傾向に、違う角度からチャレンジできるかもしれない。
と、思いはじめております。
とりとめもない読書は、そのままに、
別の、ちょっとした工夫をすればよいのかもしれない。
それはどうするのか?
その参考になる箇所が、
私の前に登場してくれました。
藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)の
最後の方に、それはありました。
「直接利用できそうなアイデア探しや役立つ情報集めに汲々(きゅうきゅう)としていては、けっきょくダメなのです。『これは無駄』『あれは役立たない』と切り捨てていては、実は表現の幅や深みを失うことになります。
見聞きすること、読むことにストイックになったり、無駄を省こうとしてはいけない。どこにどんなヒントが隠されているか、わかりません。一見、直接役に立ちそうにないことにも宝が隠れているかもしれないのです。」(p167)
そのあとでした。
「資料の集め方についても触れておきましょう。
やり方は人それぞれです。誰でも知っている内容ではつまらないので、神保町の古書店街をまわってディープな専門書を買い漁るという人も、なかにはいるかもしれません。しかし、私なら専門書から入るようなことはしません。まず読むのは入門書。それで基本を押さえるまで、専門書には手をつけないようにします。・・・・入門書は木の幹で、高度な情報が詰った専門書は枝や葉といっていいでしょう。ところが、いきなり枝や葉から入ってしまうと、それが木のどの枝についていたものなのか、あるいは木の高さや太さはどうなのかといった全体像が、いつまでたってもつかめません。全体像が見えなければ、いま手にしている知識の価値がよくわからないし、その位置づけも見えない。・・・」(p176~177)
梅雨時をまえに、アジサイの花が咲いているのを見かけるこの頃です。
雑草は生え放題。木の幹を見るのには、難しい季節となりました。
そうそう、日差しはすっかり夏でした。
もうつぎには、夏がひかえているなあ。
そういえば、こんな詩があったなあ。
見えないものを見るのが
詩人の仕事なら
人間の夏は
群小詩人にとって地獄の季節だ
麦わら帽子をかぶって
痩せた男が村のあぜ道を走って行く
(田村隆一詩集「新年の手紙」の詩「村の暗黒」の一部)
そういえば、
「山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま文庫)の
はじまりには、こうありました。
「入門書こそ究極の読みものである――。あるときふと、そう思いはじめました。このごろはそれが確信にまで高まり、人に会うたびに吹聴してみるのですが、たいてい首をかしげられてしまいます。・・・」
中途で、ホッポリ投げてしまってあった、
この本を、あらためて読み直す頃合となりました。
これじゃダメだと思っているところがありました。
うん。そのたびに、読書を狭めよう、狭めようと、
する傾向が私にはありました。
ようするに、あるところまでゆくと、
とりとめもなくなる。そのうち、ほっぽり出すことになる。
というのが、私の毎度のお決まりのコースでした。
何とも分かりやすい、読書傾向だなあ(笑)。
その傾向に、違う角度からチャレンジできるかもしれない。
と、思いはじめております。
とりとめもない読書は、そのままに、
別の、ちょっとした工夫をすればよいのかもしれない。
それはどうするのか?
その参考になる箇所が、
私の前に登場してくれました。
藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)の
最後の方に、それはありました。
「直接利用できそうなアイデア探しや役立つ情報集めに汲々(きゅうきゅう)としていては、けっきょくダメなのです。『これは無駄』『あれは役立たない』と切り捨てていては、実は表現の幅や深みを失うことになります。
見聞きすること、読むことにストイックになったり、無駄を省こうとしてはいけない。どこにどんなヒントが隠されているか、わかりません。一見、直接役に立ちそうにないことにも宝が隠れているかもしれないのです。」(p167)
そのあとでした。
「資料の集め方についても触れておきましょう。
やり方は人それぞれです。誰でも知っている内容ではつまらないので、神保町の古書店街をまわってディープな専門書を買い漁るという人も、なかにはいるかもしれません。しかし、私なら専門書から入るようなことはしません。まず読むのは入門書。それで基本を押さえるまで、専門書には手をつけないようにします。・・・・入門書は木の幹で、高度な情報が詰った専門書は枝や葉といっていいでしょう。ところが、いきなり枝や葉から入ってしまうと、それが木のどの枝についていたものなのか、あるいは木の高さや太さはどうなのかといった全体像が、いつまでたってもつかめません。全体像が見えなければ、いま手にしている知識の価値がよくわからないし、その位置づけも見えない。・・・」(p176~177)
梅雨時をまえに、アジサイの花が咲いているのを見かけるこの頃です。
雑草は生え放題。木の幹を見るのには、難しい季節となりました。
そうそう、日差しはすっかり夏でした。
もうつぎには、夏がひかえているなあ。
そういえば、こんな詩があったなあ。
見えないものを見るのが
詩人の仕事なら
人間の夏は
群小詩人にとって地獄の季節だ
麦わら帽子をかぶって
痩せた男が村のあぜ道を走って行く
(田村隆一詩集「新年の手紙」の詩「村の暗黒」の一部)
そういえば、
「山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま文庫)の
はじまりには、こうありました。
「入門書こそ究極の読みものである――。あるときふと、そう思いはじめました。このごろはそれが確信にまで高まり、人に会うたびに吹聴してみるのですが、たいてい首をかしげられてしまいます。・・・」
中途で、ホッポリ投げてしまってあった、
この本を、あらためて読み直す頃合となりました。