向井敏著「背たけにあわせて本を読む」(文芸春秋)を本棚からとりだしてくる。この本の最初と最後を引用したくなりました。
本の最後には「書名索引とその初刊」の一覧があります。その前に、平成14年2月27日に東京會舘で朗読されたという丸谷才一氏の「書評の名手」という文がありました。ちなみに、向井敏氏は平成14(2002)年1月4日に亡くなっております。
では、丸谷氏の朗読から一部引用。
「文芸時評の最高の名手が平野謙だといふことはすでに名声が確立した観がありますが、それなら、書評の代表者は誰か。この新しいジャンルを作り、充実させ、最も花やかに腕をふるつたのは向井敏でした。」(p338)
丸谷氏は、名手・向井敏を、こう指摘するのでした。
「 その丁寧な仕事ぶり、
評価の的確さ、
取り上げる領域の広さ、
対象である本が同種類、同系列の
本のなかで占める位置の見極め方、
新人紹介といふ一種の
予言的な行為の的中率の高さ、
品格が高くて魅力があつて
しかもわかりやすい文体、
などから推して、
この判定は覆しがたいと思はれます。 」
え~と、
向井敏著「背たけにあわせて本を読む」のはじめには、
向井敏氏の「書評千篇」という4ページほどの文が選ばれております。
そこから一箇所引用。
「短い書評にも功徳はある。本の見どころ勘どころを数行の言葉にきりりと絞りこめたときにやってくる快感がそれであろう。・・・・それにくらべ、紙数十分の書評だと意をつくせる率はずっと高い。外堀を埋め、内堀を埋め、相手を裸城にしてしまえる。あとは落城を待つばかり。そのあいだ、雑談に興じたり、ごたくを並べたりすることもできる。・・・私はごたくを読むのも書くのもけっこう好きなのである。ごたくの並べかたの出来不出来で、評者の能力のおよそが判定できるとさえ思っている。・・・」(p15)
う~ん。名手による「評者の能力」判定は、ハードルが高いなあ。
もっとハードルが低い指摘をしておられる方はいないかと、手近を見回す。
いそいで、そちらも引用しておきます。
藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)に
司馬遼太郎氏の「余談だが」に触れた箇所がありました。
「司馬の歴史小説やエッセイには、『余談だが』というフレーズがたびたび登場します。『余談』とはいえ、豊富な知識に基づいたその内容は、独立した読み物として読み手を惹きつける力がありました。また単なるサイドストーリーのように見えて、実は後に続く伏線だったことも珍しくありません。『司馬作品は余談のほうがおもしろい』という人もいたくらいです。おそらく司馬作品に影響を受けたのでしょう。1970年から80年にかけてはこのフレーズを使った文章をよく見かけました。しかしほとんどの場合、成功していなかったように思います。『余談だが』に続く脱線は司馬遼太郎の得意技のようなものだったわけで、普通の書き手は敬遠したほうが無難です。『余談だが』では堅苦しく感じるのか、さすがに最近は減ってきました。しかし『ちなみに』から脱線を始めるパターンは、いまだに少なくありません。推敲しているときにこれらの表現を見つけたら、そこに自分のごまかしが潜んでいないか、一度立ち止まって考えてみるとよいでしょう。」(p70~71)
ちなみに(笑)
向井敏の「司馬遼太郎の世界」という文は、司馬さんの初期小説の連載時に、吉田健一氏がつとに指摘されていた時評から、司馬さんの姿を取り出してくる文なのでした。それが「背たけにあわせて本を読む」に載せられてありました。
本の最後には「書名索引とその初刊」の一覧があります。その前に、平成14年2月27日に東京會舘で朗読されたという丸谷才一氏の「書評の名手」という文がありました。ちなみに、向井敏氏は平成14(2002)年1月4日に亡くなっております。
では、丸谷氏の朗読から一部引用。
「文芸時評の最高の名手が平野謙だといふことはすでに名声が確立した観がありますが、それなら、書評の代表者は誰か。この新しいジャンルを作り、充実させ、最も花やかに腕をふるつたのは向井敏でした。」(p338)
丸谷氏は、名手・向井敏を、こう指摘するのでした。
「 その丁寧な仕事ぶり、
評価の的確さ、
取り上げる領域の広さ、
対象である本が同種類、同系列の
本のなかで占める位置の見極め方、
新人紹介といふ一種の
予言的な行為の的中率の高さ、
品格が高くて魅力があつて
しかもわかりやすい文体、
などから推して、
この判定は覆しがたいと思はれます。 」
え~と、
向井敏著「背たけにあわせて本を読む」のはじめには、
向井敏氏の「書評千篇」という4ページほどの文が選ばれております。
そこから一箇所引用。
「短い書評にも功徳はある。本の見どころ勘どころを数行の言葉にきりりと絞りこめたときにやってくる快感がそれであろう。・・・・それにくらべ、紙数十分の書評だと意をつくせる率はずっと高い。外堀を埋め、内堀を埋め、相手を裸城にしてしまえる。あとは落城を待つばかり。そのあいだ、雑談に興じたり、ごたくを並べたりすることもできる。・・・私はごたくを読むのも書くのもけっこう好きなのである。ごたくの並べかたの出来不出来で、評者の能力のおよそが判定できるとさえ思っている。・・・」(p15)
う~ん。名手による「評者の能力」判定は、ハードルが高いなあ。
もっとハードルが低い指摘をしておられる方はいないかと、手近を見回す。
いそいで、そちらも引用しておきます。
藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)に
司馬遼太郎氏の「余談だが」に触れた箇所がありました。
「司馬の歴史小説やエッセイには、『余談だが』というフレーズがたびたび登場します。『余談』とはいえ、豊富な知識に基づいたその内容は、独立した読み物として読み手を惹きつける力がありました。また単なるサイドストーリーのように見えて、実は後に続く伏線だったことも珍しくありません。『司馬作品は余談のほうがおもしろい』という人もいたくらいです。おそらく司馬作品に影響を受けたのでしょう。1970年から80年にかけてはこのフレーズを使った文章をよく見かけました。しかしほとんどの場合、成功していなかったように思います。『余談だが』に続く脱線は司馬遼太郎の得意技のようなものだったわけで、普通の書き手は敬遠したほうが無難です。『余談だが』では堅苦しく感じるのか、さすがに最近は減ってきました。しかし『ちなみに』から脱線を始めるパターンは、いまだに少なくありません。推敲しているときにこれらの表現を見つけたら、そこに自分のごまかしが潜んでいないか、一度立ち止まって考えてみるとよいでしょう。」(p70~71)
ちなみに(笑)
向井敏の「司馬遼太郎の世界」という文は、司馬さんの初期小説の連載時に、吉田健一氏がつとに指摘されていた時評から、司馬さんの姿を取り出してくる文なのでした。それが「背たけにあわせて本を読む」に載せられてありました。