大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に
第六高女へ入学することが書かれていて、
そこを引用。
「いよいよ昭和7年二月ごろから、女学校の入学試験が始まりました。
・・・・・・
文化学院より府立第六(現東京都立三田高校)がいいと母が言います。
担任の先生も第六がいいとおっしゃいます。
・・・
第六では、一週間に四、五時間は体操の時間がありました。
それも、歩くことが健康の要ということで、
とにかく歩け、歩け、でした。
体操の時間には歩き方の訓練があり、
背筋を伸ばして、膝を伸ばして、
とくりかえし言われるので、
みんな、すっ、すっと歩くのが身に付きます。
月に一度は遠足があって、
三里(12キロ)ほど歩かされました。
それに年に二度、『適応遠足』といって、
全校生徒がいっしょに行動します。
これは自分の力に合った距離を選んで歩くのです。
年によって、行き先が変わったようですが、
私たちのときは、多摩川の土手を歩きました。
川崎駅が出発点で、終点は日野。
川崎から十里(40キロ)になります。
多摩川の土手を川上に向かってずっといきますと、
私鉄がいくつか交わります。
途中、二里(8キロ)、六里(24キロ)で歩くのをやめて、
それぞれ、もよりの目蒲線の多摩川園前駅、
小田急線登戸駅から電車に乗って帰ってもいいのです。
校長の丸山丈作先生が思いつかれた方法でした。
丸山丈作校長については、「暮しの手帖」77号(昭和39年 1964年)に
特集を載せていますが、とにかく
生徒が大事、生徒の健康が大事と考えられた先生でした。」(p53~54)
この箇所を読んだとき、
さっそく、ネット古本屋で、
1964年冬号77号「暮しの手帖」を手にいれました(笑)。
また、その雑誌の丸山丈作先生の文を読み返しております。
第六高女へ入学することが書かれていて、
そこを引用。
「いよいよ昭和7年二月ごろから、女学校の入学試験が始まりました。
・・・・・・
文化学院より府立第六(現東京都立三田高校)がいいと母が言います。
担任の先生も第六がいいとおっしゃいます。
・・・
第六では、一週間に四、五時間は体操の時間がありました。
それも、歩くことが健康の要ということで、
とにかく歩け、歩け、でした。
体操の時間には歩き方の訓練があり、
背筋を伸ばして、膝を伸ばして、
とくりかえし言われるので、
みんな、すっ、すっと歩くのが身に付きます。
月に一度は遠足があって、
三里(12キロ)ほど歩かされました。
それに年に二度、『適応遠足』といって、
全校生徒がいっしょに行動します。
これは自分の力に合った距離を選んで歩くのです。
年によって、行き先が変わったようですが、
私たちのときは、多摩川の土手を歩きました。
川崎駅が出発点で、終点は日野。
川崎から十里(40キロ)になります。
多摩川の土手を川上に向かってずっといきますと、
私鉄がいくつか交わります。
途中、二里(8キロ)、六里(24キロ)で歩くのをやめて、
それぞれ、もよりの目蒲線の多摩川園前駅、
小田急線登戸駅から電車に乗って帰ってもいいのです。
校長の丸山丈作先生が思いつかれた方法でした。
丸山丈作校長については、「暮しの手帖」77号(昭和39年 1964年)に
特集を載せていますが、とにかく
生徒が大事、生徒の健康が大事と考えられた先生でした。」(p53~54)
この箇所を読んだとき、
さっそく、ネット古本屋で、
1964年冬号77号「暮しの手帖」を手にいれました(笑)。
また、その雑誌の丸山丈作先生の文を読み返しております。