和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

歩け、歩け、でした。

2013-12-07 | 短文紹介
大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に
第六高女へ入学することが書かれていて、
そこを引用。


「いよいよ昭和7年二月ごろから、女学校の入学試験が始まりました。
・・・・・・
文化学院より府立第六(現東京都立三田高校)がいいと母が言います。
担任の先生も第六がいいとおっしゃいます。
・・・
第六では、一週間に四、五時間は体操の時間がありました。
それも、歩くことが健康の要ということで、
とにかく歩け、歩け、でした。
体操の時間には歩き方の訓練があり、
背筋を伸ばして、膝を伸ばして、
とくりかえし言われるので、
みんな、すっ、すっと歩くのが身に付きます。
月に一度は遠足があって、
三里(12キロ)ほど歩かされました。
それに年に二度、『適応遠足』といって、
全校生徒がいっしょに行動します。
これは自分の力に合った距離を選んで歩くのです。
年によって、行き先が変わったようですが、
私たちのときは、多摩川の土手を歩きました。
川崎駅が出発点で、終点は日野。
川崎から十里(40キロ)になります。
多摩川の土手を川上に向かってずっといきますと、
私鉄がいくつか交わります。
途中、二里(8キロ)、六里(24キロ)で歩くのをやめて、
それぞれ、もよりの目蒲線の多摩川園前駅、
小田急線登戸駅から電車に乗って帰ってもいいのです。
校長の丸山丈作先生が思いつかれた方法でした。
丸山丈作校長については、「暮しの手帖」77号(昭和39年 1964年)に
特集を載せていますが、とにかく
生徒が大事、生徒の健康が大事と考えられた先生でした。」(p53~54)

この箇所を読んだとき、
さっそく、ネット古本屋で、
1964年冬号77号「暮しの手帖」を手にいれました(笑)。
また、その雑誌の丸山丈作先生の文を読み返しております。
コメント
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