丸山丈作の「東京府立第六高等女学校」に
「新しい学校ができて、はじめて私が校長になった年の9月1日に、関東大震災がありました。あの震災は私にもいろんな意味でショックでしたが、なかでも、強く心を打たれたのは、被服廠跡で何万人という人が死んだという、あのことです。その人たちのなかには、もう少し歩けば上野の山なりなんなり、安全なところへ避難できたのに、疲れきってしまって、つい手近な被服廠跡へ逃げこんで、そうしてそこでみんな焼け死んだのです。
それをみて、女だから、歩かないでいいという、これまでの教育はまちがっていた、と心底からそうおもいました。こういうとき、日ごろから足を鍛えておけば、あの被服廠で死んだたくさんの女の人だって、死ななくてすんだにちがいない、うちの学校でもなんとかして足を鍛える訓練をしなければならないと、そう感じたのです。」(p218)
「暮しの手帖」1964冬号 77号
「新しい学校ができて、はじめて私が校長になった年の9月1日に、関東大震災がありました。あの震災は私にもいろんな意味でショックでしたが、なかでも、強く心を打たれたのは、被服廠跡で何万人という人が死んだという、あのことです。その人たちのなかには、もう少し歩けば上野の山なりなんなり、安全なところへ避難できたのに、疲れきってしまって、つい手近な被服廠跡へ逃げこんで、そうしてそこでみんな焼け死んだのです。
それをみて、女だから、歩かないでいいという、これまでの教育はまちがっていた、と心底からそうおもいました。こういうとき、日ごろから足を鍛えておけば、あの被服廠で死んだたくさんの女の人だって、死ななくてすんだにちがいない、うちの学校でもなんとかして足を鍛える訓練をしなければならないと、そう感じたのです。」(p218)
「暮しの手帖」1964冬号 77号