丸谷才一著「別れの挨拶」(集英社)。
その最後の方
「未来の文学を創る」(2012年8月28日)
の挨拶のなかに
「文学作品を書くことは、一筆用件をしたためて封筒にをさめ、切手を貼つてポストに入れるやうな、いはば事務的な、能率のいいことではなくて、思ひのたけを趣向をこらして書きつけ、空き瓶に入れて海に流す、それをどこかの誰かが拾つて読んでくれるかもしれない、いはば海流瓶のやうなものだといふことを悟り、妙な形で励まされたのでありました。つまり無鉄砲と言へば無鉄砲な、成功の可能性のずいぶん低い仕事なのですが、かういふ形であとにつづく世代、後世の作家たちを刺激し、未来の文学を創る。それが文学の伝統を大事にすることなのであります。・・・・」(p326)
この文の前に、
「一体にわたしは傲慢なたちで、四十歳のころ長篇小説『笹まくら』を書いたときなど、絶大な反響を呼ぶにちがひないと思つてゐました。しかし別にどうつてことはなかつた。内心、ずいぶんがつかりしたのでありますが、それから三十年ほど経つてから、池澤夏樹さんとか村上春樹さんが別々の場所でこの作品に言及して、あれで現代日本でも西洋ふうの長篇を書くことが可能だと思つた、と書いてゐました。嬉しかった。」
うん。ここに三十年とありますが、
四十年という方もおります。
谷沢永一著「最強の国語力を身につける勉強法」(PHP)
の「若いときから――あとがきにかえて」に
「・・・まず同人雑誌『えんぴつ』に、昭和25年、『斎藤茂吉の作歌の態度』150枚を連載しました。のち、それを約90枚に圧縮して、関西大学国文学会発行の学術雑誌『国文学』第七号に掲載していただきました。時に昭和27年6月でした。・・・それから幾星霜、誰ひとりこの論文に言及した人はありません。・・・ところが奇跡が起ったのです。小西甚一先生の大作『日本文藝史』(全五巻、昭和60~平成4年)の刊行が始まりました。・・・・平成4年、最終第五巻刊行。そのなかに、数多(あまた)の茂吉文献をほとんど埒外に置き、私の『斎藤茂吉の作歌の態度』が、初出である『国文学』第七号の誌名とともに登録されていました。それを一瞥したのが、私の生涯で最も嬉しい日となりました。私が論文を発表して四十年、遂に、初めて、その価値が認められたのです。四十年は長かった。その代わり、小西先生に認められた喜びまたひとしおでした。・・・いったん学問を志す以上、論文の発表に早すぎるということはない。モチーフが湧いて書けるときには、年齢などお構いなしに書くべきです。当初は無視黙殺されようと、必ず書いておくべきです。私は四十年待ちました。・・・・ためらってはいけません。進行するべきです。私の回顧談から、何事かを汲み取っていただけるのを心から切望いたします。」
お二人とも亡くなり、
こうしてお二人の言葉が伝わる。
その最後の方
「未来の文学を創る」(2012年8月28日)
の挨拶のなかに
「文学作品を書くことは、一筆用件をしたためて封筒にをさめ、切手を貼つてポストに入れるやうな、いはば事務的な、能率のいいことではなくて、思ひのたけを趣向をこらして書きつけ、空き瓶に入れて海に流す、それをどこかの誰かが拾つて読んでくれるかもしれない、いはば海流瓶のやうなものだといふことを悟り、妙な形で励まされたのでありました。つまり無鉄砲と言へば無鉄砲な、成功の可能性のずいぶん低い仕事なのですが、かういふ形であとにつづく世代、後世の作家たちを刺激し、未来の文学を創る。それが文学の伝統を大事にすることなのであります。・・・・」(p326)
この文の前に、
「一体にわたしは傲慢なたちで、四十歳のころ長篇小説『笹まくら』を書いたときなど、絶大な反響を呼ぶにちがひないと思つてゐました。しかし別にどうつてことはなかつた。内心、ずいぶんがつかりしたのでありますが、それから三十年ほど経つてから、池澤夏樹さんとか村上春樹さんが別々の場所でこの作品に言及して、あれで現代日本でも西洋ふうの長篇を書くことが可能だと思つた、と書いてゐました。嬉しかった。」
うん。ここに三十年とありますが、
四十年という方もおります。
谷沢永一著「最強の国語力を身につける勉強法」(PHP)
の「若いときから――あとがきにかえて」に
「・・・まず同人雑誌『えんぴつ』に、昭和25年、『斎藤茂吉の作歌の態度』150枚を連載しました。のち、それを約90枚に圧縮して、関西大学国文学会発行の学術雑誌『国文学』第七号に掲載していただきました。時に昭和27年6月でした。・・・それから幾星霜、誰ひとりこの論文に言及した人はありません。・・・ところが奇跡が起ったのです。小西甚一先生の大作『日本文藝史』(全五巻、昭和60~平成4年)の刊行が始まりました。・・・・平成4年、最終第五巻刊行。そのなかに、数多(あまた)の茂吉文献をほとんど埒外に置き、私の『斎藤茂吉の作歌の態度』が、初出である『国文学』第七号の誌名とともに登録されていました。それを一瞥したのが、私の生涯で最も嬉しい日となりました。私が論文を発表して四十年、遂に、初めて、その価値が認められたのです。四十年は長かった。その代わり、小西先生に認められた喜びまたひとしおでした。・・・いったん学問を志す以上、論文の発表に早すぎるということはない。モチーフが湧いて書けるときには、年齢などお構いなしに書くべきです。当初は無視黙殺されようと、必ず書いておくべきです。私は四十年待ちました。・・・・ためらってはいけません。進行するべきです。私の回顧談から、何事かを汲み取っていただけるのを心から切望いたします。」
お二人とも亡くなり、
こうしてお二人の言葉が伝わる。