和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「つれづれ」の20通りの解釈。

2017-02-26 | 古典
東日本大震災のあとに、
新潮ムック「これからを生きる君たちへ」という雑誌が
出たことがあります。
そこに掲載された渡辺憲司氏の本が
「時に海を見よ これからの日本を生きる君に贈る」(双葉社)
次に出ておりました。

単行本の渡辺憲司(けんじ)氏は
専門は日本近世文学。文学部教授のあとに、
中学校高等学校校長でした。

単行本には、こんな箇所がありました。

「定時制の後に勤めたのは、いわゆる進学校であった。
御三家などと呼ばれていた男子校である。しかし、
狭い意味での受験校ではなかった。
生徒は私の見る限りではのびのびと学生生活を謳歌していた。
自由・自主の精神が受け継がれていた。
私はベケンと呼ばれ、自由を楽しんだ。
国語の教師であったが、カリキュラムなどなきに等しい。
古典文法の代わりに、平家物語の一節を無理やり暗誦させ、
中学一年生には変体仮名を教えた。
徒然草の授業では、『つれづれ』の二十通りの解釈を
黒板に書き、それを筆写させた。
私は、若さゆえの熱さを彼らにぶつけることが出来た。
自由と放任の綱渡りのような教師生活が続いた。」(p144)

ここにある徒然草の授業が気になっておりました。

思い浮かんだのは、
小林秀雄の「徒然草」と題する短文の出だしでした。
そのはじまりを引用。

「『徒然なる儘に、日ぐらし、硯に向ひて、
心に映り行くよしなしごとを、そこはかと無く
書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ』。
徒然草の名は、この有名な書出しから、
後人の思ひ付いたものとするのが通説だが、
どうも思ひ付はうま過ぎた様である。
兼好の苦がい心が、洒落た名前の後に隠れた。
一片の洒落もずゐ分いろいろなものを隠す。
一枚の木の葉も、月を隠すに足りる様なものか。
今更、名前の事なぞ言つても始らぬが、
徒然といふ文章を、遠近法を誤らずに眺めるのは、
思ひの外の難事である所似に留意するのはよい事だと思ふ。」


「一片の洒落もずゐ分いろいろなものを隠す。」という文句。
ここなど、私は、小林秀雄風の「殺し文句」を、
ついつい、思い浮かべてしまうのでした(笑)。
コメント
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