百目鬼恭三郎著「奇談の時代」の
はじめの方に、こんな箇所がありました。
「奇行のなかで殊に私が好きなのは、『仮名世説』に載る
上州大原の鋳物師(いもじ)惣佐衛門の話である。この男は
若いときから本が好きで、記憶力のいいのを自慢していた。
ところが、ある日、にわか雨で人が菰をかぶって走ってゆく
のを見て、惣佐衛門の妻が、『「枕草子」に、みのむしの
様なるわらわ、と書いているのもあんな恰好だったのでしょうか』
といった。惣佐衛門はこれを聞いて『それはちがう。「源氏物語」
の須磨の巻の「ひぢがさ雨とか降りて」という章段に出て来るはずだ。
「枕草子」じゃない』といい出して、口論となり、本を調べてみたら、
『枕草子』のほうだった。怒った惣佐衛門は、本を妻に投げつけると、
そのまま家を出て、鳥山村の聟のところへいったきり帰らなかった。
妻のほうはたびたび鳥山村へ足を運んで、いろいろ詫びたりしたが、
一言も口をきかずそっぽを向くばかりである。
日暮れになると裏の畑に出て、いくつも穴を掘っては、
夜明けにこれを埋めるということを毎日繰り返していた。
なんのつもりかと人に問われると、
『夜中に起きて小便をする穴だ』と答えたという。
24年間ここに居ついたまま、寛政元年(1789年)12月はじめに
85歳で死んだとある。
田舎の鋳物師の夫婦が古典に詳しいというのは、
この時代でも特にめずらしいわけではない。
鋳物師は技術者で、一種の知識人なのである。
同時代の伊勢の農夫で、『万葉集』を全部暗記していた
という話(「続近世奇人伝」)や、江戸の護持院原で
茶の屋台店を出していた孫市という男は、
雨で商売が出来ない日は、『文選』をさかなに酒をのむ
のを楽しみにしていたという話(「仮名世説」)もあるから、
庶民階層の文化水準は案外高かったとみてよろしかろう。
この話で私たちを驚かすのは、ささいな論争に負けただけで、
鋳物師が古典といっしょに自分の人生も捨ててしまった、
その自律のすさまじさである。
平安中期の歌人藤原長能(ながとう)が、
藤原公任(きんとう)に歌の欠点を指摘されてから、
何も食べられなくなって死んだという『袋草紙』の話にくらべると、
この鋳物師の奇行はいかにも堂々としており、
哲学的ですらあるように思われる。」
(p23~24)
夏の夜に、寝ながら、こんな箇所を読んでいると、
はて、どんな人だったのだろうと思い描きながら、
先へと読みすすめずに、眠りにつくのでした。
夏と、奇談との組み合わせというのは、
🍙と、梅干みたいな関係なのでしょうか。
はじめの方に、こんな箇所がありました。
「奇行のなかで殊に私が好きなのは、『仮名世説』に載る
上州大原の鋳物師(いもじ)惣佐衛門の話である。この男は
若いときから本が好きで、記憶力のいいのを自慢していた。
ところが、ある日、にわか雨で人が菰をかぶって走ってゆく
のを見て、惣佐衛門の妻が、『「枕草子」に、みのむしの
様なるわらわ、と書いているのもあんな恰好だったのでしょうか』
といった。惣佐衛門はこれを聞いて『それはちがう。「源氏物語」
の須磨の巻の「ひぢがさ雨とか降りて」という章段に出て来るはずだ。
「枕草子」じゃない』といい出して、口論となり、本を調べてみたら、
『枕草子』のほうだった。怒った惣佐衛門は、本を妻に投げつけると、
そのまま家を出て、鳥山村の聟のところへいったきり帰らなかった。
妻のほうはたびたび鳥山村へ足を運んで、いろいろ詫びたりしたが、
一言も口をきかずそっぽを向くばかりである。
日暮れになると裏の畑に出て、いくつも穴を掘っては、
夜明けにこれを埋めるということを毎日繰り返していた。
なんのつもりかと人に問われると、
『夜中に起きて小便をする穴だ』と答えたという。
24年間ここに居ついたまま、寛政元年(1789年)12月はじめに
85歳で死んだとある。
田舎の鋳物師の夫婦が古典に詳しいというのは、
この時代でも特にめずらしいわけではない。
鋳物師は技術者で、一種の知識人なのである。
同時代の伊勢の農夫で、『万葉集』を全部暗記していた
という話(「続近世奇人伝」)や、江戸の護持院原で
茶の屋台店を出していた孫市という男は、
雨で商売が出来ない日は、『文選』をさかなに酒をのむ
のを楽しみにしていたという話(「仮名世説」)もあるから、
庶民階層の文化水準は案外高かったとみてよろしかろう。
この話で私たちを驚かすのは、ささいな論争に負けただけで、
鋳物師が古典といっしょに自分の人生も捨ててしまった、
その自律のすさまじさである。
平安中期の歌人藤原長能(ながとう)が、
藤原公任(きんとう)に歌の欠点を指摘されてから、
何も食べられなくなって死んだという『袋草紙』の話にくらべると、
この鋳物師の奇行はいかにも堂々としており、
哲学的ですらあるように思われる。」
(p23~24)
夏の夜に、寝ながら、こんな箇所を読んでいると、
はて、どんな人だったのだろうと思い描きながら、
先へと読みすすめずに、眠りにつくのでした。
夏と、奇談との組み合わせというのは、
🍙と、梅干みたいな関係なのでしょうか。