昨日の産経新聞一面で浅利慶太氏の訃報記事が載っておりました。
今日の産経新聞一面の産経抄は、浅利慶太氏をとりあげています。
ちなみに、今日の産経社会面下には、「常田富士男さん死去」と、
常田(ときた)さんの死亡記事「81歳『日本昔ばなし』語り手」。
とあります。その最後には
〈「まんが日本昔ばなし」でともに語り手を務めた市原悦子さんの話〉
がありました。そこを引用。
「真面目で、弟のような、夫のような、おじいさんのような。
ちょっと見は近寄りがたいけど、かわいい人でした」。
思い浮かんだのは、外山滋比古著「新聞大学」(扶桑社)。
その「15 個人消息」のなかの「訃報記事」を引用。
「このごろ、個人情報保護ということがやかましく
言われるようになったが、個人消息のようなニュースは、
いっそうおもしろくなっているとも言える。
マスコミが個人消息に冷淡であるのは、
そのおもしろさを認めないからではない。
ほしくてもニュースとして取材できないからである。
個人消息の取材能力をもつのは、特殊集団であって、
マスコミではない。
個人消息でもっとも大きいのは、死亡記事である。
ラジオ、テレビは、昔から、よほどでないと訃報は出さない。
新聞も、負けずに、個人消息をボイコットするようになった。
時々、思い出したように社会面の最下段に黒い棒線つきで訃報が載る。
取材したものではなく通知されたものであるらしく、
バランスに欠けている。然るべき人の訃報を出さなかった新聞が
さほどでない人物の死を伝える。でたらめだと思う読者が
増えても仕方がないだろう。
タレントが亡くなると、大きく記事になる。
資料もあり、情報を得る人脈もわかっているから、
締切りまでにかなりの大きなスペースを埋める。
そういう記事の尻のほうに、黒線づきで、
元国務大臣だった人の訃報が、小さく、そっけなく
報じられている。そういう紙面に慣れていると、
価値観が揺らぐかもしれない。
有名であるのはたいへんなことであるという
センセイショナリズムが広がる。
訃報は重い報道であるが、取材が困難である。
速報はあきらめなくてはならないのかもしれない。
現に、夕刊に追悼録を載せている新聞もあるが、
あまり力を入れていないことが一般読者にも伝わる。
生前つき合いのあった社内の記者が書いている訃報が多いが、
ベストの執筆者を探す努力がほしい。
やはり、時間の制約をまぬがれないのだろう。
『文藝春秋』の巻末、『蓋棺録』は
現在のところ最上の訃報ページである。・・・」
はい。引用がつい長くなりましたが、
「15 個人消息」の最後も引用させてください。
「・・・新聞大学で学ぶものとしては、
とりあえず訃報に注目、敬意を払うことを学ぶようにする。
そして人間の価値を定めるのは、なにかということを
考えるようにする。人物判断力である。
人間の価値を見定める目のない人が、
選挙権を持つと、どうなるか、と考える想像力を養うためにも、
個人の生き方についての報道はこれまで以上に重要である。」
今日の産経新聞一面の産経抄は、浅利慶太氏をとりあげています。
ちなみに、今日の産経社会面下には、「常田富士男さん死去」と、
常田(ときた)さんの死亡記事「81歳『日本昔ばなし』語り手」。
とあります。その最後には
〈「まんが日本昔ばなし」でともに語り手を務めた市原悦子さんの話〉
がありました。そこを引用。
「真面目で、弟のような、夫のような、おじいさんのような。
ちょっと見は近寄りがたいけど、かわいい人でした」。
思い浮かんだのは、外山滋比古著「新聞大学」(扶桑社)。
その「15 個人消息」のなかの「訃報記事」を引用。
「このごろ、個人情報保護ということがやかましく
言われるようになったが、個人消息のようなニュースは、
いっそうおもしろくなっているとも言える。
マスコミが個人消息に冷淡であるのは、
そのおもしろさを認めないからではない。
ほしくてもニュースとして取材できないからである。
個人消息の取材能力をもつのは、特殊集団であって、
マスコミではない。
個人消息でもっとも大きいのは、死亡記事である。
ラジオ、テレビは、昔から、よほどでないと訃報は出さない。
新聞も、負けずに、個人消息をボイコットするようになった。
時々、思い出したように社会面の最下段に黒い棒線つきで訃報が載る。
取材したものではなく通知されたものであるらしく、
バランスに欠けている。然るべき人の訃報を出さなかった新聞が
さほどでない人物の死を伝える。でたらめだと思う読者が
増えても仕方がないだろう。
タレントが亡くなると、大きく記事になる。
資料もあり、情報を得る人脈もわかっているから、
締切りまでにかなりの大きなスペースを埋める。
そういう記事の尻のほうに、黒線づきで、
元国務大臣だった人の訃報が、小さく、そっけなく
報じられている。そういう紙面に慣れていると、
価値観が揺らぐかもしれない。
有名であるのはたいへんなことであるという
センセイショナリズムが広がる。
訃報は重い報道であるが、取材が困難である。
速報はあきらめなくてはならないのかもしれない。
現に、夕刊に追悼録を載せている新聞もあるが、
あまり力を入れていないことが一般読者にも伝わる。
生前つき合いのあった社内の記者が書いている訃報が多いが、
ベストの執筆者を探す努力がほしい。
やはり、時間の制約をまぬがれないのだろう。
『文藝春秋』の巻末、『蓋棺録』は
現在のところ最上の訃報ページである。・・・」
はい。引用がつい長くなりましたが、
「15 個人消息」の最後も引用させてください。
「・・・新聞大学で学ぶものとしては、
とりあえず訃報に注目、敬意を払うことを学ぶようにする。
そして人間の価値を定めるのは、なにかということを
考えるようにする。人物判断力である。
人間の価値を見定める目のない人が、
選挙権を持つと、どうなるか、と考える想像力を養うためにも、
個人の生き方についての報道はこれまで以上に重要である。」