和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

≪ 手作り ≫で。

2023-08-13 | 本棚並べ
「花森安治といえば」なんてことを思いながらとり出してきたのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・2010年)。

目次の第9章「すてきなあなたに」のなかに、「花森安治の死」と小見出。
その文に、花森さんが書いたあとがきが引用されてます。

『(前略)一号から百号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真をとり、
  原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、

  それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、
  よろこびであり、誇りである、ということです。

  雑誌作りというのは、どんなに
  大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、
  
  所詮は≪ 手作り ≫である、
  それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。

  だから、編集者は、もっとも正しい意味で≪ 職人(アルチザン)≫
  的な才能を要求される、そうもおもいます。

  ぼくは、死ぬ瞬間まで≪ 編集者 ≫でありたい、とねがっています。
  その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く
  汚している、現役の編集者でありたいのです。(後略) 』

こう大橋さんは引用したあとに
「 花森さんが一世紀百号に書いたあとがきです。それから8年、
  その文章のままに、最後の日まで赤ペンを持って、仕事を続けたのでした。」
        ( p214~215 )


そして、次のページには、田宮虎彦氏からの手紙が引用されております。

「 しばらくして田宮虎彦さんから手紙が届きました。
  田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。
  ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した・・友人どうしでした。

   
    花森君があれだけのことができたのは、
    もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、
    やはりあなたの協力があったからこそだと思います。

    こんなことを私が言うのは筋違いであり、
    おかしなことかも知れませんが、

    花森君が力いっぱい生きることが出来、
    あのようにすばらしい業績を残したことについての、
    あなたのお力に対し、あつく御礼を申上げます。

    ・・・・・・・
    花森君がなくなってもう一カ月以上すぎてしまいました。・・ 』」

                 ( P216~217 )
    
     
コメント
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