「花森安治といえば」なんてことを思いながらとり出してきたのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・2010年)。
目次の第9章「すてきなあなたに」のなかに、「花森安治の死」と小見出。
その文に、花森さんが書いたあとがきが引用されてます。
『(前略)一号から百号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真をとり、
原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、
それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、
よろこびであり、誇りである、ということです。
雑誌作りというのは、どんなに
大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、
所詮は≪ 手作り ≫である、
それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。
だから、編集者は、もっとも正しい意味で≪ 職人(アルチザン)≫
的な才能を要求される、そうもおもいます。
ぼくは、死ぬ瞬間まで≪ 編集者 ≫でありたい、とねがっています。
その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く
汚している、現役の編集者でありたいのです。(後略) 』
こう大橋さんは引用したあとに
「 花森さんが一世紀百号に書いたあとがきです。それから8年、
その文章のままに、最後の日まで赤ペンを持って、仕事を続けたのでした。」
( p214~215 )
そして、次のページには、田宮虎彦氏からの手紙が引用されております。
「 しばらくして田宮虎彦さんから手紙が届きました。
田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。
ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した・・友人どうしでした。
花森君があれだけのことができたのは、
もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、
やはりあなたの協力があったからこそだと思います。
こんなことを私が言うのは筋違いであり、
おかしなことかも知れませんが、
花森君が力いっぱい生きることが出来、
あのようにすばらしい業績を残したことについての、
あなたのお力に対し、あつく御礼を申上げます。
・・・・・・・
花森君がなくなってもう一カ月以上すぎてしまいました。・・ 』」
( P216~217 )