注文した鴨長明著「新版発心集」上下(角川ソフィア文庫・2014年)届く。
浅見和彦・伊東玉美訳注となっております。もちろん古本。
東日本大震災の2011年に刊行されていた
浅見和彦校訂・訳の鴨長明著「方丈記」(ちくま学芸文庫)の
印象が鮮やかだったので、同じ浅見の名前があるこの文庫を注文しました。
「新版発心集」下の、浅見和彦氏の解説の最後にこうあります。
「『方丈記』には鴨長明の生涯のあらましが綴られている。
それゆえ、『方丈記』は自伝的文学と評されることが多い。
一方、この『発心集』には長明の情念が表出し、色濃くにじみ出ている。
『方丈記』が長明の自伝的な作品だとすれば、この
『発心集』は長明の自画像的な作品ということができるかもしれない。」
( p339 )
はい。この興味深い本なのですが、本を手に入れると
それだけで満足してしまいやすい私ですので、まずは、
『発心集 序』の現代語訳からすこし引用し終ります。
「仏が教えて下さったことがある。
『 心の師とはなるとも、心を師としてはいけない 』と。
本当にその通りだ。・・・・・・・
それゆえ、常に我が心ははかなく、愚かであるということを忘れないで、
かの仏の教えにしたがい、心許すことなくし、迷いの世界を立ち離れ・・
それはたとえていうなら、
牧童が暴れ回る馬を連れて、遠い土地まで行くようなものである。
ただ心には強弱もあり、また浅深もある。
また一方、自らの心をおしはかるに、善に背くというわけでもない、
また悪から遠ざかっているというわけでもない。
まるで風に吹かれてなびきやすい草のようだ。あるいはまた、
浪の上に映る月影の静まりにくいのと全く同じだ。
いったいどのようにして、この愚かな心を教えさとしたらいいのだろうか。」
( 上巻現代語訳 p248~249 )
さてっと、この本は、いったいどのようにして、私みたいな愚か者が、
本を放り投げる心を、教えさとし、読み続けさせてくれるのだろうか。
と今からワクワクしてくるのでした。