古本で雑誌太陽の一冊を200円で購入。
写真を見ながらパラパラとひらきます。
雑誌太陽(平凡社)の太陽コレクションとなっていて、
「士農工商 仕事と暮らし江戸・明治Ⅱ(農民) 」とあります。
1975年の雑誌特別号で、当時定価1900円となっております。
パラパラめくると、なぜだか賢治のあの写真がある。
黒っぽいコートらしきものをはおり。帽子をかぶり、
後ろ手に、下前方の畑の様子でもみているような姿。
真壁仁「東北農民の仕事と暮らし 寒冷の風土のなかで」。
という文のなかに、その写真がありました。
賢治の22歳のときの短歌が引用されておりまして、
そのあとの文を引用しておきます。
「 盛岡高等農林学校本科を卒業し、
ひきつづき関豊太郎教授について、
地質、土壌、肥料の研究をすすめていた。
関教授は日本でもっとも早く、冷寒凶作の原因として
寒流卓越の説を唱えた人で、それは明治40年のことである。
盛岡高農が全国のどこより早く明治38年、
農学博士玉利喜造を校長に創設されたのは
冷害を克服する稲作技術を東北にうちたて、
一大食糧供給地をつくるためであった。
宮沢賢治は冷害克服を研究課題とする学校に学んだのだが、
すでに幼少時に遊んだ花巻の町にある松庵寺の門前には、
宝暦、天明、天保の餓死者を供養する石碑がずらりと並んでいた。
・・・
その後賢治が農業農民問題にとりくむことを
うながした原風景かもしれない。 」( p43 )
とかく、文学的に傾きがちな賢治像なのですが、
風土農民視点からの、賢治像を知らされました。
はい。真壁仁氏の宮沢賢治の本を読みたくなる。