和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

盛岡高農の宮沢賢治。

2023-08-20 | 重ね読み
古本で雑誌太陽の一冊を200円で購入。
写真を見ながらパラパラとひらきます。

雑誌太陽(平凡社)の太陽コレクションとなっていて、
「士農工商 仕事と暮らし江戸・明治Ⅱ(農民) 」とあります。
1975年の雑誌特別号で、当時定価1900円となっております。

パラパラめくると、なぜだか賢治のあの写真がある。
黒っぽいコートらしきものをはおり。帽子をかぶり、
後ろ手に、下前方の畑の様子でもみているような姿。

真壁仁「東北農民の仕事と暮らし 寒冷の風土のなかで」。
という文のなかに、その写真がありました。

賢治の22歳のときの短歌が引用されておりまして、
そのあとの文を引用しておきます。

「 盛岡高等農林学校本科を卒業し、
  ひきつづき関豊太郎教授について、
  地質、土壌、肥料の研究をすすめていた。

  関教授は日本でもっとも早く、冷寒凶作の原因として
  寒流卓越の説を唱えた人で、それは明治40年のことである。

  盛岡高農が全国のどこより早く明治38年、
  農学博士玉利喜造を校長に創設されたのは
  冷害を克服する稲作技術を東北にうちたて、
  一大食糧供給地をつくるためであった。

  宮沢賢治は冷害克服を研究課題とする学校に学んだのだが、
  
  すでに幼少時に遊んだ花巻の町にある松庵寺の門前には、
  宝暦、天明、天保の餓死者を供養する石碑がずらりと並んでいた。
  ・・・   
  その後賢治が農業農民問題にとりくむことを
  うながした原風景かもしれない。      」( p43 )


とかく、文学的に傾きがちな賢治像なのですが、
風土農民視点からの、賢治像を知らされました。
はい。真壁仁氏の宮沢賢治の本を読みたくなる。


 
コメント
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