200円の古本に、
富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)があった。
雑文集なのですが、装幀・谷川晃一。挿画・富士正晴。
最初は気づかなかったけど、薄い和紙が挟まっていて、
栞サイズ和紙に「濱田哲様 富士正晴」と、筆の署名。
うん。いっしゅん、夏の暑さを忘れました。
はい。署名本なんて私の趣味じゃないのですが、これは別でした。
そのままの、水墨画のような味わいに、手をひたしているような
( 何をいっているのやら )。
はい。せっかくこの本をひらくのですから、
ちょいと引用しなくちゃね。
「司馬遼太郎夫婦との交遊」と題する3頁ほどの文。
これは( 「司馬遼太郎全集」月報9・1972年5月)からです。
そこから引用。富士さんが電話でたずねる話からはじまっています。
「・・・司馬遼太郎は大抵のことは即座にさばき、
さばけぬ時はわざわざ調べてくれる。親切この上もない。
しかし、時には溜息をつく。
『 あんたみたいに万里の長城をこっちに飛び、あっちに飛び
するようなことを聞いてくるのは閉口するなあ 』
こう、時にはいうわけである。
司馬遼太郎から何かを質問してくることはほぼない。
・・・・ごくたまの司馬遼太郎から富士正晴への質問電話は
『 あんたこのごろ一向に電話かけてこんけど、病気してるのとちがうか 』
とか、
『 明日、表彰式にちゃんと出るやろな。
一人やったら厭やろから、ぼくも会場へ行って
控え室におったげるわね。こなあかんで 』
( わたしが照れくさがって表彰式へ来ないのだと思っているのだ。
そのくせ、ずっと前、同じ賞を彼が受けた時、彼は行かずに
妻君に代行させた。妻君はいまだに、思い出すのもいややわ
といっている。 )
とにかく、司馬遼太郎の電話は優しいのだ。
敬老の念はなはだあついのやら、
幼児をお守りしてくれている気なのやら
判らない。半々であるかも知れない。 」( p236~237 )
ちなみに、あとがきには、こんな箇所が
「・・五冊目のわたしの雑文集がこれである。
すべて、松本昌次、濱田哲、松本章男、藤好美知、高橋康雄の
五人の編集者の方の随意の原稿選択、随意の配列、随意の造本、
随意の表題によるもので、
著者としてはどんなものが出来上るか大変楽しみが多かった。
そういうわけで、本の出来方が一貫しており、
わたしの感謝の念も、五人の編集者の方々すべてに
一貫して存在しているという気がする。
いわば、五人の方々がわたしを廻し遊んでいるような気がしないでもない。
『 らかんさんが揃たらまわそじゃないか 』という具合にである。
大いに感謝したい。 」(p295)
そうかそうか、本にはさまっていた栞は、
感謝をこめた、宛名書き署名だったのだ。