高橋新吉が、この詩「白菜」について書いております。
それを引用してみます。
「この詩には『和 清湘老人極戯墨』と傍題があります。
白菜は野菜のはくさいです。清湘老人の絵を見て書いたようです。一幅の絵を見て書いたようです。美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。一個の白菜に仮託して、清純な心境に淡彩が施されています。・・・・
彼は感覚を全身的に働かしています。聴覚も嗅覚も動員して、一個の白菜に打つかっています。簡略な俳句的な字句に、それが暗示されております。『光る根の軸』とか『のびる軸』とか『光る軸』とか、軸という字が三ヵ所にあります・・・白菜のはっぱは現象的なものとして、ふたしかなもの、あいまいなものとされています。現実の生活の苦しみも匂わせています。『力の深い寂かさにゐる』現象を透して不変なものを安四は見ております。このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。日本の詩もここまで来るためには大変な消費があったわけです。・・・・・」(「高橋新吉全集」青土社の第四巻。p510~511)
高橋新吉による詩「白菜」の解説には、
「美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。」とありました。
ダダイストの詩人・高橋新吉には、あまり知られておりませんが、絵画への鑑賞眼を示す本を出しております。たとえば、「美術論集 すずめ」という現代美術に関する10巻の本がある。その内容はというと、毎年の美術展を観ながら、絵画の写真とその題名を並べてあり、それに触発された詩や、感想が紹介されているのでした。これについては、親しいKさんに聞いたエピソードがあります。「美術論集すずめ」の一冊をKさんは古本屋で買ったのだそうです。出版は竹葉屋書店とあり、電話番号も載っている。さっそく他の数冊もあるか確かめたくて連絡をとると、そこは高橋新吉の自宅でした。そこでKさんは興味がてら、住所をたどって本を買いに出かけていったそうです。詩人はテレビを見て待っており、部屋には地方紙が無造作に置かれていたそうです。Kは詩人にあって詩の話もせずに、残りの巻を購入する話をしていたそうで。押入れのようなところから出してきて売ってくれたそうです。ただし1冊欠があったと言っておりました。
ちょいと寄り道してしまいましたが、
詩「白菜」は、言葉としての意味合いをあれこれ語っても、つまらなくなるような気が私にはします。それよりも絵との関連から見てゆくと、すっきりと単純な視点を得る気がするのでした。思い浮かぶことを書いてみます。
「定本 尼崎安四詩集」の附録で、富士正晴氏が尼崎氏について書いておりました。そのなかにこんな箇所があります。「・・竹内勝太郎に師事し得たということがある。しかし、この師事の期間が竹内勝太郎の不運な急死によって、ごく短く打ち切られたことは彼の悲運であった。重ねてしかしというが、その後、竹内の心友の宗教的雰囲気の濃い花鳥画家榊原紫峰の宅に出入りして、彼に親しみ、彼の精神を吸収し得たということは尼崎にとって幸運とでもいうべきものであったと思われる。」
これは富士正晴が附録に書き記しているのですが、
のちに、富士正晴は「榊原紫峰」(朝日新聞・昭和60年)を書き上げております。
その本によると、竹内勝太郎の絵への視点が鮮やかに浮かび上がる記述があるのでした。榊原紫峰の絵を竹内がどう記述していたのかが、わかるのです。
「私の立場からすれば、氏(注:榊原)の新しい芸術的生活の本道は寧ろ『果実』から始まって『五月雨の頃』『露』『竹の秋』『獅子』『野菜』を経て『蛤』にまで続いていゐると見たいのである。『蛤』は尺三横物の小品で、唯大小五六個の蛤を描いたに過ぎぬが、ものの見方のはっきりとしたこと、実在の掴み方の確かなこと、生命の美しさを表現するその構図の組み方の立派なことなどは他の幾多の大きな作品よりも遙かに優れてゐる。私は此の小品を限りなく愛するものである。それはほんとうに紫峰氏が静物の本体を自覚してきたことを示すものであると信じてゐる。・・・・」(p120~121)
私には、この箇所を、そのまま尼崎安四の詩「白菜」の評価としたい誘惑にかられます。また、興味深いのは竹内勝太郎に「村上華岳の仏画」と題する文章があることです。
そのなかにこんな言葉があります。
「若し仏画が唯従来の所謂仏様を描き表すことに尽きるものならば、それはもう法隆寺の壁画や日野法界寺のそれの如き飛鳥、天平乃至藤原初期の作品で充分である。それは到底あれ以上には出られないし、及びもしない、ヨシそれ等に追従し得たにした所で、結局は模倣の譏(そし)りを免れまい。現代人は現代人の仏画を要求する。それは仏様の相を描かなくても、一木一石を描いて充分仏を表現し得、風景画を描いても静物を描いても、彼の信ずる宗教を切実に表現し得る底のものでなくてはならぬ。なぜなら我々は飛鳥、天平の時代に住むものでなく・・・現代人の宗教画に要求する所も亦自から違って来なければならぬではないか。」(p131)
たとえば、この言葉には、高橋新吉が詩「白菜」を評して「このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。」という言葉と近いものが感じられてくるのです。
竹内勝太郎や高橋新吉が、絵について語った感触に、尼崎安四の詩も近づいたのだと、拾遺詩集を読んで私は思うのでした。
正岡子規著「病牀六尺」(岩波文庫)の解説は上田三四二でした。
上田三四二氏には「詩人」と題された文があります。
はじまりはこうでした。
「世の中にはすくなくとも一人、自分そっくりの人間が居るという。
そっくりというのではないが、尼崎安四の生涯を年譜に読んだとき、
前方を歩いて行く自分の背中を見るような気がした。
彼はひっそりと霧の中を来て、霧の中に消えていった。
ほとんど無名にちかかったこの詩人は、二つの未刊詩集『微笑と絶望』『微塵詩集』を遺して昭和27年満38歳10ヵ月で死んでいる。白血病であった。はじめての詩集、『定本尼崎安四詩集』が出たのはそれから30年近くたった昭和54年のことである。・・・」
この上田氏の尼崎紹介で、経歴が、興味深いのでいた。
その経歴を追ってみたいとおもいます。
大正2年7月26日生まれ。神戸一中を出て、
昭和6年に龍谷大学予科に入学している。仏教への関心のためで、親に黙って試験を受けた。仏教哲学を学ぶつもりであったが、大学の実情に失望して、中退。そして翌7年、第三高等学校の文科に入りなおす。そこで卒業までに5年かかっている。尼崎は2学年への進級に際して、数学の点数が足らずに落第している。「安四は数学の試験に白紙を出したという。友人が回してくれた解答をいったんは写したが、潔癖がそれを許さなかった。また消して、刑に服するような気持ちで名前だけ書いた答案をさし出した」。それでも24歳で京大文学部(英文科)に進みます。翌年結婚。そして「大学の卒業が近づいたとき、安四はあと一つになった試験を放棄した。在学中に結婚して子供までできた身に、普通なら一日も早い卒業を望みそうなものであるのに、彼は何故か卒業する気がないらしく、大事な試験を受けたがらなかった。妻と友人の富士正晴が曳きずるようにして試験場に連れ出すと、安四は『そんなにまでせんでも、受けるよ』と言い残して教室に入っていったが、そのまま、監視者の眼のとどかない別の戸口から逃れ出た。昭和15年のことで、彼は卒業しないまま翌16年の1月に兵役にとられた。加古川の高射砲隊に入り・・・・28歳から32歳にわたる足掛け5年の戦歴である。兵を解かれたとき伍長であった。」
終戦までの間の尼崎安四はどうだったかも、書かれております。
上田三四二氏はこう指摘しております。
「兵役は安四にとって留年と同じ意味をもっていた。世の常の職業に就きえないと知る詩人には、それは留保の恵みとさえ感じられたかもしれない」そして、同じ戦友の証言を引用しております。「安四は優秀な砲手であったが、時に反軍的な言葉をもらすことがあって、中隊幹部からは要注意の兵とされていた。部隊がチモール島にいた頃彼は、日本は最終的には負けると放言して、班長や古兵の憤激を招いたことがあった。制裁をうけても信ずることは黙っていられなかったのであろう」「満州駐留の初めから安四の特異さは聞えていたと言っている」
そして復員。
その様子を上田氏はこう書いております。
「昭和21年6月和歌山県田辺港に上陸した尼崎安四は、もちろん大学に戻って卒業資格をとる気はなかった。7月で満33歳になろうとする詩人は、とりあえず妻の郷里である愛媛県西条市の下町というところに落着いた。世外の地である戦場から現世でもとりわけ生きにくい戦後という世の中に連れ戻され投げ入れられて、出来ることなら彼は、この世という生涯の試験場の裏口から抜け出したかったであろう。だがこんどは卒業試験のようなわけにはいかない。
土地の中学校に教師の口があった。この世における最初の職業であるその教師の仕事を、彼は一ヵ月足らずで辞めてしまい、妻にも辞めた理由を明さなかった。問い詰めると照れ笑いが返ってくるばかりである。それから、驚いたことに、彼は海人草などの仲買人になった。戦後の時代の仲買人といえば、闇ブローカーである。彼の仲買人生活は、いっそう驚くべきことに、昭和26年の半ばごろまでつづいた。」
そして、西条に連れ戻された安四は、昭和26年の9月から西条高校に勤めるのですが、翌昭和27年5月5日骨髄性白血病で亡くなります。
ここには、尼崎安四の詩「トワヱモワ」を引用しておきます。
トワヱモワ
世界のどこかにつながつてゐたものが切れてしまつた
私はいつ地球の外へおちてゆくかも知れない
私の一歩一歩 私の一言ひとことはみんな偶然だ奇蹟だ
私が一番自分を信じてゐない
私は自分がどこにもつながつてゐないのを知ってゐる
然しあなたは私をあてに生きてゐる
私の袖につかまつて
あなた自身が陥ちてゆくもののやうに
このことを信じ あのことを信じ
たしかに露だつて葉末に生きてゐることがある
陰鬱な私のそばでなぜかあなたは輝いてゐる
尼崎安四は昭和27(1952)年5月5日、満38歳10ヶ月で亡くなっています。
画家佐藤哲三は、その同じ1952年に、こんな言葉を発表しておりました。
「やうやく蒲原平野のみのりの秋も終り、暖かな火のほしい季節、私の絵画も温かく人々の心をあたためるものであってほしい。この様な可能性をもし私が考える時、致し方なくこの風土に作画するのでなく、この自分を育ててくれたなつかしい風物を、喜びや悲しみをふくめて現わしつづけた画家生活の一歩一歩で意味を持ちたいと思う。みにくい流行と混迷が、すべてをおおいかくそうとしても、蒲原平野は温かい幸福を知り、秋の豊かな収穫のために生きる希望にふるい立つであろう。私はただそのことのみを現わすために励まされてきた。」
佐藤哲三は、その二年後の昭和29(1954)年6月25日、享年44歳で亡くなっております。
身近な柿と白菜をとりあげて、画家佐藤哲三と詩人尼崎安四の二人を紹介しました。
佐藤哲三は明治43年生まれ(1910~1954)。
尼崎安四は大正2年生まれ(1913~1952)。
お二人は、ほぼ同時代といっていいかと思われます。
ここで、私はかってな想像を抱くのです。
もしも、尼崎安四が佐藤哲三の絵を見ることがあったらという想像です。
尼崎安四は戦争体験があります。その体験に「竹」と題した詩があります。
その詩の添え書きにこんな言葉がありました。
「カイマナ陣地死闘の日々
何故か牧渓鶴の図が頭を離れなかつた。
(注:渓の字は、左がサンズイではなく、奚の字です)
敵機の不断の攻撃のため、椰子林は開墾地のやうに薙ぎ倒され、
椰子の木は雪を被つたやうに真白だつた。・・・・・・・・・・」
ここからは、余談になりますが、洲之内徹を御存知でしょうか。
芸術新潮に「気まぐれ美術館」という連載をしていた画廊主です。
その洲之内氏に「北越に埋もれた鬼才・佐藤哲三」(1969年)という文があります。
その画廊主がはじめて佐藤哲三の絵を見たときのことを書いておりました。
「数年前、私の画廊へ、三枚の小さな油絵を、ひと抱えにして持ちこんできた人があった。『蕪(かぶ)』と、『桃』と、もう一枚はなんだったか思い出せないが、いずれそういった類いの果物か野菜を描いたものだったろう。作者は新潟のほうの出身で佐藤哲三といい、もう亡くなった画家だということであった。その三枚の絵を、そのとき私は買わなかった。いい絵だとは思ったが、佐藤哲三という名は私のはじめて聞く名前で、そういう、いわば無名にひとしい画家で、おまけにもう故人だということになると、それにしては、言われる値段が法外な気がしたからである。画商も十年もしていると、だんだん絵がわからなくなるのではないかと、つねづね私は思っている。高いか安いか、売れるか売れないか、儲かるか、それとも損をしそうか、商売だから仕方がないようなものの、そういう、本来絵そのものとはなんの関係もない思惑が先に立つからだ。そして、商売にならない作品には関心を持たなくなる。十年とはかからない。当時この稼業に入ってまだ五年か六年目で、すでに私はそうなっていたのだった。しかし、高いといったところでたかがしれている。せめてあのうちの一枚だけでも買っておけばよかったと、間もなく私は後悔するようになった。そのとき見逃した格別どうということもない『蕪』や『桃』の絵が、後になって、かえっていつまでも目についてならないのである。いったい、あのときのあの絵の何がこうなるのか、それを確かめようにも、肝心の作品が見られないのであった。・・・・・・」(洲之内徹著「しゃれのめす」世界文化社・p58)
そうそう、洲之内徹は大正2年生まれ(1913~1987)で、尼崎安四と同年に生まれておりました。
それを引用してみます。
「この詩には『和 清湘老人極戯墨』と傍題があります。
白菜は野菜のはくさいです。清湘老人の絵を見て書いたようです。一幅の絵を見て書いたようです。美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。一個の白菜に仮託して、清純な心境に淡彩が施されています。・・・・
彼は感覚を全身的に働かしています。聴覚も嗅覚も動員して、一個の白菜に打つかっています。簡略な俳句的な字句に、それが暗示されております。『光る根の軸』とか『のびる軸』とか『光る軸』とか、軸という字が三ヵ所にあります・・・白菜のはっぱは現象的なものとして、ふたしかなもの、あいまいなものとされています。現実の生活の苦しみも匂わせています。『力の深い寂かさにゐる』現象を透して不変なものを安四は見ております。このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。日本の詩もここまで来るためには大変な消費があったわけです。・・・・・」(「高橋新吉全集」青土社の第四巻。p510~511)
高橋新吉による詩「白菜」の解説には、
「美しい視覚的な詩です。一幅の絵が目に浮びます。」とありました。
ダダイストの詩人・高橋新吉には、あまり知られておりませんが、絵画への鑑賞眼を示す本を出しております。たとえば、「美術論集 すずめ」という現代美術に関する10巻の本がある。その内容はというと、毎年の美術展を観ながら、絵画の写真とその題名を並べてあり、それに触発された詩や、感想が紹介されているのでした。これについては、親しいKさんに聞いたエピソードがあります。「美術論集すずめ」の一冊をKさんは古本屋で買ったのだそうです。出版は竹葉屋書店とあり、電話番号も載っている。さっそく他の数冊もあるか確かめたくて連絡をとると、そこは高橋新吉の自宅でした。そこでKさんは興味がてら、住所をたどって本を買いに出かけていったそうです。詩人はテレビを見て待っており、部屋には地方紙が無造作に置かれていたそうです。Kは詩人にあって詩の話もせずに、残りの巻を購入する話をしていたそうで。押入れのようなところから出してきて売ってくれたそうです。ただし1冊欠があったと言っておりました。
ちょいと寄り道してしまいましたが、
詩「白菜」は、言葉としての意味合いをあれこれ語っても、つまらなくなるような気が私にはします。それよりも絵との関連から見てゆくと、すっきりと単純な視点を得る気がするのでした。思い浮かぶことを書いてみます。
「定本 尼崎安四詩集」の附録で、富士正晴氏が尼崎氏について書いておりました。そのなかにこんな箇所があります。「・・竹内勝太郎に師事し得たということがある。しかし、この師事の期間が竹内勝太郎の不運な急死によって、ごく短く打ち切られたことは彼の悲運であった。重ねてしかしというが、その後、竹内の心友の宗教的雰囲気の濃い花鳥画家榊原紫峰の宅に出入りして、彼に親しみ、彼の精神を吸収し得たということは尼崎にとって幸運とでもいうべきものであったと思われる。」
これは富士正晴が附録に書き記しているのですが、
のちに、富士正晴は「榊原紫峰」(朝日新聞・昭和60年)を書き上げております。
その本によると、竹内勝太郎の絵への視点が鮮やかに浮かび上がる記述があるのでした。榊原紫峰の絵を竹内がどう記述していたのかが、わかるのです。
「私の立場からすれば、氏(注:榊原)の新しい芸術的生活の本道は寧ろ『果実』から始まって『五月雨の頃』『露』『竹の秋』『獅子』『野菜』を経て『蛤』にまで続いていゐると見たいのである。『蛤』は尺三横物の小品で、唯大小五六個の蛤を描いたに過ぎぬが、ものの見方のはっきりとしたこと、実在の掴み方の確かなこと、生命の美しさを表現するその構図の組み方の立派なことなどは他の幾多の大きな作品よりも遙かに優れてゐる。私は此の小品を限りなく愛するものである。それはほんとうに紫峰氏が静物の本体を自覚してきたことを示すものであると信じてゐる。・・・・」(p120~121)
私には、この箇所を、そのまま尼崎安四の詩「白菜」の評価としたい誘惑にかられます。また、興味深いのは竹内勝太郎に「村上華岳の仏画」と題する文章があることです。
そのなかにこんな言葉があります。
「若し仏画が唯従来の所謂仏様を描き表すことに尽きるものならば、それはもう法隆寺の壁画や日野法界寺のそれの如き飛鳥、天平乃至藤原初期の作品で充分である。それは到底あれ以上には出られないし、及びもしない、ヨシそれ等に追従し得たにした所で、結局は模倣の譏(そし)りを免れまい。現代人は現代人の仏画を要求する。それは仏様の相を描かなくても、一木一石を描いて充分仏を表現し得、風景画を描いても静物を描いても、彼の信ずる宗教を切実に表現し得る底のものでなくてはならぬ。なぜなら我々は飛鳥、天平の時代に住むものでなく・・・現代人の宗教画に要求する所も亦自から違って来なければならぬではないか。」(p131)
たとえば、この言葉には、高橋新吉が詩「白菜」を評して「このように宗教的な祈りに似た感情や哲学的な知性が、この作品からは汲みとれます。」という言葉と近いものが感じられてくるのです。
竹内勝太郎や高橋新吉が、絵について語った感触に、尼崎安四の詩も近づいたのだと、拾遺詩集を読んで私は思うのでした。
正岡子規著「病牀六尺」(岩波文庫)の解説は上田三四二でした。
上田三四二氏には「詩人」と題された文があります。
はじまりはこうでした。
「世の中にはすくなくとも一人、自分そっくりの人間が居るという。
そっくりというのではないが、尼崎安四の生涯を年譜に読んだとき、
前方を歩いて行く自分の背中を見るような気がした。
彼はひっそりと霧の中を来て、霧の中に消えていった。
ほとんど無名にちかかったこの詩人は、二つの未刊詩集『微笑と絶望』『微塵詩集』を遺して昭和27年満38歳10ヵ月で死んでいる。白血病であった。はじめての詩集、『定本尼崎安四詩集』が出たのはそれから30年近くたった昭和54年のことである。・・・」
この上田氏の尼崎紹介で、経歴が、興味深いのでいた。
その経歴を追ってみたいとおもいます。
大正2年7月26日生まれ。神戸一中を出て、
昭和6年に龍谷大学予科に入学している。仏教への関心のためで、親に黙って試験を受けた。仏教哲学を学ぶつもりであったが、大学の実情に失望して、中退。そして翌7年、第三高等学校の文科に入りなおす。そこで卒業までに5年かかっている。尼崎は2学年への進級に際して、数学の点数が足らずに落第している。「安四は数学の試験に白紙を出したという。友人が回してくれた解答をいったんは写したが、潔癖がそれを許さなかった。また消して、刑に服するような気持ちで名前だけ書いた答案をさし出した」。それでも24歳で京大文学部(英文科)に進みます。翌年結婚。そして「大学の卒業が近づいたとき、安四はあと一つになった試験を放棄した。在学中に結婚して子供までできた身に、普通なら一日も早い卒業を望みそうなものであるのに、彼は何故か卒業する気がないらしく、大事な試験を受けたがらなかった。妻と友人の富士正晴が曳きずるようにして試験場に連れ出すと、安四は『そんなにまでせんでも、受けるよ』と言い残して教室に入っていったが、そのまま、監視者の眼のとどかない別の戸口から逃れ出た。昭和15年のことで、彼は卒業しないまま翌16年の1月に兵役にとられた。加古川の高射砲隊に入り・・・・28歳から32歳にわたる足掛け5年の戦歴である。兵を解かれたとき伍長であった。」
終戦までの間の尼崎安四はどうだったかも、書かれております。
上田三四二氏はこう指摘しております。
「兵役は安四にとって留年と同じ意味をもっていた。世の常の職業に就きえないと知る詩人には、それは留保の恵みとさえ感じられたかもしれない」そして、同じ戦友の証言を引用しております。「安四は優秀な砲手であったが、時に反軍的な言葉をもらすことがあって、中隊幹部からは要注意の兵とされていた。部隊がチモール島にいた頃彼は、日本は最終的には負けると放言して、班長や古兵の憤激を招いたことがあった。制裁をうけても信ずることは黙っていられなかったのであろう」「満州駐留の初めから安四の特異さは聞えていたと言っている」
そして復員。
その様子を上田氏はこう書いております。
「昭和21年6月和歌山県田辺港に上陸した尼崎安四は、もちろん大学に戻って卒業資格をとる気はなかった。7月で満33歳になろうとする詩人は、とりあえず妻の郷里である愛媛県西条市の下町というところに落着いた。世外の地である戦場から現世でもとりわけ生きにくい戦後という世の中に連れ戻され投げ入れられて、出来ることなら彼は、この世という生涯の試験場の裏口から抜け出したかったであろう。だがこんどは卒業試験のようなわけにはいかない。
土地の中学校に教師の口があった。この世における最初の職業であるその教師の仕事を、彼は一ヵ月足らずで辞めてしまい、妻にも辞めた理由を明さなかった。問い詰めると照れ笑いが返ってくるばかりである。それから、驚いたことに、彼は海人草などの仲買人になった。戦後の時代の仲買人といえば、闇ブローカーである。彼の仲買人生活は、いっそう驚くべきことに、昭和26年の半ばごろまでつづいた。」
そして、西条に連れ戻された安四は、昭和26年の9月から西条高校に勤めるのですが、翌昭和27年5月5日骨髄性白血病で亡くなります。
ここには、尼崎安四の詩「トワヱモワ」を引用しておきます。
トワヱモワ
世界のどこかにつながつてゐたものが切れてしまつた
私はいつ地球の外へおちてゆくかも知れない
私の一歩一歩 私の一言ひとことはみんな偶然だ奇蹟だ
私が一番自分を信じてゐない
私は自分がどこにもつながつてゐないのを知ってゐる
然しあなたは私をあてに生きてゐる
私の袖につかまつて
あなた自身が陥ちてゆくもののやうに
このことを信じ あのことを信じ
たしかに露だつて葉末に生きてゐることがある
陰鬱な私のそばでなぜかあなたは輝いてゐる
尼崎安四は昭和27(1952)年5月5日、満38歳10ヶ月で亡くなっています。
画家佐藤哲三は、その同じ1952年に、こんな言葉を発表しておりました。
「やうやく蒲原平野のみのりの秋も終り、暖かな火のほしい季節、私の絵画も温かく人々の心をあたためるものであってほしい。この様な可能性をもし私が考える時、致し方なくこの風土に作画するのでなく、この自分を育ててくれたなつかしい風物を、喜びや悲しみをふくめて現わしつづけた画家生活の一歩一歩で意味を持ちたいと思う。みにくい流行と混迷が、すべてをおおいかくそうとしても、蒲原平野は温かい幸福を知り、秋の豊かな収穫のために生きる希望にふるい立つであろう。私はただそのことのみを現わすために励まされてきた。」
佐藤哲三は、その二年後の昭和29(1954)年6月25日、享年44歳で亡くなっております。
身近な柿と白菜をとりあげて、画家佐藤哲三と詩人尼崎安四の二人を紹介しました。
佐藤哲三は明治43年生まれ(1910~1954)。
尼崎安四は大正2年生まれ(1913~1952)。
お二人は、ほぼ同時代といっていいかと思われます。
ここで、私はかってな想像を抱くのです。
もしも、尼崎安四が佐藤哲三の絵を見ることがあったらという想像です。
尼崎安四は戦争体験があります。その体験に「竹」と題した詩があります。
その詩の添え書きにこんな言葉がありました。
「カイマナ陣地死闘の日々
何故か牧渓鶴の図が頭を離れなかつた。
(注:渓の字は、左がサンズイではなく、奚の字です)
敵機の不断の攻撃のため、椰子林は開墾地のやうに薙ぎ倒され、
椰子の木は雪を被つたやうに真白だつた。・・・・・・・・・・」
ここからは、余談になりますが、洲之内徹を御存知でしょうか。
芸術新潮に「気まぐれ美術館」という連載をしていた画廊主です。
その洲之内氏に「北越に埋もれた鬼才・佐藤哲三」(1969年)という文があります。
その画廊主がはじめて佐藤哲三の絵を見たときのことを書いておりました。
「数年前、私の画廊へ、三枚の小さな油絵を、ひと抱えにして持ちこんできた人があった。『蕪(かぶ)』と、『桃』と、もう一枚はなんだったか思い出せないが、いずれそういった類いの果物か野菜を描いたものだったろう。作者は新潟のほうの出身で佐藤哲三といい、もう亡くなった画家だということであった。その三枚の絵を、そのとき私は買わなかった。いい絵だとは思ったが、佐藤哲三という名は私のはじめて聞く名前で、そういう、いわば無名にひとしい画家で、おまけにもう故人だということになると、それにしては、言われる値段が法外な気がしたからである。画商も十年もしていると、だんだん絵がわからなくなるのではないかと、つねづね私は思っている。高いか安いか、売れるか売れないか、儲かるか、それとも損をしそうか、商売だから仕方がないようなものの、そういう、本来絵そのものとはなんの関係もない思惑が先に立つからだ。そして、商売にならない作品には関心を持たなくなる。十年とはかからない。当時この稼業に入ってまだ五年か六年目で、すでに私はそうなっていたのだった。しかし、高いといったところでたかがしれている。せめてあのうちの一枚だけでも買っておけばよかったと、間もなく私は後悔するようになった。そのとき見逃した格別どうということもない『蕪』や『桃』の絵が、後になって、かえっていつまでも目についてならないのである。いったい、あのときのあの絵の何がこうなるのか、それを確かめようにも、肝心の作品が見られないのであった。・・・・・・」(洲之内徹著「しゃれのめす」世界文化社・p58)
そうそう、洲之内徹は大正2年生まれ(1913~1987)で、尼崎安四と同年に生まれておりました。
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