庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)も、
「山芋」の章を読んでから、残り少ない章を読みました。
「山芋」の次は「雷」でした。その「雷」のなかに、
浜木綿を大阪の生家の庭から掘って、東京まで持って帰ったことが
書かれております。
「 大浦が生家の庭で兄に手伝って貰って、
この浜木綿を株分けしたのは、小学三年生の晴子を連れて、
母の病気見舞いに大阪へ帰った時であった。その年の二月に
正太郎が生れたので、細君と安雄と赤ん坊は留守番をした。
二人が帰ったのは、丁度お彼岸のいい天気の日であった。
母は思ったよりも元気で、大浦が赤ん坊の写真を見せると、
うれしそうに手に取って眺めていた。一年前に大浦の母は
脳血栓で倒れた。それ以来、失語症になって、
病気がよくなってからも、
みんなと話をすることが出来なかった。
それで、こちらの方からいろんなことを話しかけるのだが、
あとは母の表情を見て、自分の話が通じていると思うよりほかない。
物足りないといえば、物足りない。しかし、
生命を取り戻したのに、贅沢はいえなかった。・・・・ 」(p230∼231)
「 彼は母にいつ東京へ帰るということはいっていなかった。
母が苦しんでいる時でなくて、楽になって眠っている時に
そばを離れることが出来たことを彼は仕合せに思った。
それから半月ほどで大浦の母は亡くなった 」(p236)
『 夕べの雲 』をさっとですが、読み終えたので、
次は庄野潤三のどの本を読みましょう。と思っていたら、
昨日注文してあった古本が届く。
庄野潤三著『 ワシントンのうた 』(文芸春秋)でした。
ぱらりとひらくと、『 ザボンの花 』のことが語られております。
「・・私にとってははじめて書く新聞小説である。
どんな風に書けばいいか分からなくて、まるっきり自己流で書き始めた。
新聞小説は、明日の続きがどうなるかと読者に期待をもたせる
というのだが、私はそんなこと、全く考えないで、
自分の好きなように書いた。
大阪から東京へ引越して来て、
麦畑のそばの家に住むことになる矢牧一家が、いったい
どんなふうに新しい土地での生活に馴れてゆくか、
どんな出来ごとが待ちかまえているかを書くことにしたのである。
矢牧一家の新しい土地での生活を、
正三となつめと四郎の三人の子供たちの上に起る
出来ごとを中心に書いてゆくことにしたのある。
私は、大阪の生家に大きな病気から立ち直った母がいて、
日本経済新聞をとって、毎晩、私の連載を読んでくれ、
よみ終ると切抜を作ってくれていることを聞いていた。
そこで、病気の母に向って、
『 私たち、元気にしております。こんなことをして暮しております 』
と知らせるつもりで『 ザボンの花 』を書き続けた。
母に読んでもらうために書いた小説である。・・ 」(p142∼143)
庄野潤三の年譜をひらくと、
昭和30年(1955)34歳に『ザボンの花』を日本経済新聞夕刊に
連載(152回完結)とあります。
昭和39年(1964)43歳に『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載
(127回完結)と出てきます。
講談社文芸文庫の終わりの方に、庄野潤三による
「 著者から読者へ『夕べの雲』の思い出 」が載っております。
『夕べの雲』を書くきっかけが語られておりました。
「或る日、私は渋谷から乗った地下鉄のなかで日経新聞の文化部長を
している尾崎さんと顔を合せた。すると、庄野さん、新聞小説を
お書きになるお気持はありませんかと訊かれた。
・・・・あるいは、挨拶代りにちょっと話してみただけで
あったのかも知れない。
ただ、日本経済新聞とは私は縁があった。
昭和30年に、『 プールサイド小景 』で芥川賞を受賞したあと、
日本経済新聞から依頼があって、夕刊に『 ザボンの花 』という
小説を書いた。新聞小説として成功したかどうかということは別として、
作者としては気持よく仕事が出来た。いい思い出が残っている。
ほかの新聞からいわれたのなら・・・
多分、引込み思案の気分の方が強く働いただろう。・・・ 」
はい。このような思い出が書かれておりました。ということで、
『夕べの雲』の次に私が読むのは『 ザボンの花 』にします。
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