和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

憚らず。

2007-12-26 | Weblog
読み返してもいないのに、徒然草には興味があるわけです。
それで、コラムなどで徒然草からの引用などがあると、注目します。
ということで、古新聞をもらってきた朝日の天声人語(2007年12月15日)。
普段はちょいと読む気がおこらなかったのですが、
「悪筆を自認する者に、『徒然草』の兼好法師は心強い味方である。」
とはじまっているので、読んでみたわけです。
第35段の短い文が紹介されておりました。
徒然草原文のこの段は、ほんとに短いものです。以下引用。
「手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。」
天声人語子は、前半この言葉の説明をして、「年賀状の受け付けが今日から始まる」とつなげておりました。「ここ数年は、あて名も印刷が増えた。手もとを見ると、今年届いた6割はあて名が印刷だ。うち半分は裏面にも肉筆がない。」とつづきます。

さてっと、
第35段はどういう意味か。
さまざまな訳を並べてみましょう。まずは橋本治訳(絵本徒然草・河出書房新社)

「字のヘタな人間がかまわずに手紙を書きまくるのは、よし。『みっともねェ』ってんで、人に書かせるのはうっとうしい。」

佐藤春夫訳(現代語訳徒然草・河出文庫)は

「字のへたな人が、平気で手紙を書き散らすのは好(よ)い。見苦しいからと代筆をさせているのはいやみなものである。」

山崎正和訳(徒然草・方丈記 学研文庫)は、「代筆」と題しておりました。

「字のへたな人が、遠慮せずに手紙を書き散らすのは、よい。見苦しいというので、代筆させるのは、いやみである。」

橋本武訳(イラスト古典全訳徒然草 日栄社)

「字を書くことの下手な人が、誰にはばかることもなく、手紙をどんどん書くのはよいものだ。見っともないからというので、人に代筆させるのはいやみなものだ。」

うん。もうちょっとつづけましょう。

安良岡康作訳「現代語訳対照徒然草」(旺文社文庫)

「文字を書くのが下手な人が、遠慮なく手紙をどんどん書くのは、よいものだ。これに反して、書く文字がみっともないと思って、他人に書かせるのは、いやみなものだ。」


さて、そろそろ沼波ケイ音の訳と評とをもってきます。

「字の下手なんか、平気で手紙なんかをドシドシ書くのは宜しい。見苦しいからと云ので、人に書かせるのは、うるさい厭味なことだ。」

次の『評』を、引用したかったわけです。

「私が中学に居た時、和文読本と云教科書の中に、ここが引いてあつた。鈴木先生の講義を聞いた時に、少年心ながら、ハツとした。今から其の時の心持を譬へて云つて見ると、凛然たる大将が顕はれて、進め、と号令したやうな気がした。恥づるに及ばぬ、自分を暴露して、其時々のベストを尽して、猛進するのだ、と云覚悟は、この段の講義を聞いた時にほのかながら芽ざしたのであつた。・・・・・
この段を見て、それぢや字はいくら拙くてもいいのか、と問ふ人があらう。そうぢや無い、そう云事を兼好が云つてるのぢや無い。字は見よきに如かずだ。しかし、人のおかげを蒙つて、うまいやうに見せびらかす奴は唾棄すべし、と云つてるのである。
この段は短いが、言が実に強い。」

ちなみに、私は谷沢永一著「百言百話」(中公新書)で、沼波氏の解釈があることを、はじめて知りました。


それでですね。40枚ほどの年賀はがきの宛名を手書きで、書いたわけですョ。これがどうも、下手なままの字でして(下手でも丁寧に書けばよいものを、ついつい早く済まそうという気持ちが働きます)恥の書き捨てというつもりで、ポストへ。憚(はばか)らずというところだけ、懲りずに私は煎じて飲んでいるようなのです。それを思うにつけ。ワープロが登場してから、世界がどれだけひろがったことか。

ところで、です。天声人語子は、最低でも200~300枚以上だと思うんですよ。年賀状書きを、ちゃんと手書きで書かれているのだろうなあ。私には真似できないだろうなあ。などと思うわけです。


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