安田耕一著「舎久と道久保」(昭和51年・非売品)。
明治35年12月14日千葉県安房郡和田町和田生まれ。
東京慈恵会医科大学卒業とあります。
この本に「関東大震災」と題した4ページほどの文がありました。
そのはじまりは
「入学して次の夏休みに房州に帰っていて震災にあった。
東京へ帰る人達とお別れのお昼を食べようと言って、
鶏なぞつぶして焜炉に鍋をかけはじめた時に、
上下動の凄まじいのが来た。 」(p68)
このあとに、余震の描写があります。
「・・・みんな驚いて顔色がなかった。
余震の大きいのがくる度に、
みんな世の中の終末かと思って蒼ざめていた。
ただ一途に桑原々々を唱える人もあれば、
腰を抜かして全然動けない人もあった。
腰が抜けるとは全く面白いもので、
驚愕の極、腰がへたへたと床に落ちて、
足の運動が無力となって、一過性の麻痺状態となる。
こんな二人の女につかまって私は往生した。
余震の大揺れが来るたびに天井を見ればうねっていて、
何時落ちてくるかと生きた心地がしなかった。
余震が段々弱くなって来たが、何時また大きいのが来るかと
家の中には入って寝ることが出来ないから、
みんな野外に蚊帳を吊って野宿した。
3日間は余震が劇しくて飯もろくに食えなかった。
こんな生活が10日間も続いて、漸く余震も薄れて
家の中に居られるようになった」
このあとに、東京の姉の家へと行くことになります。
「余震も全然とはいえないが、静かになってから14日くらいして
姉の家のことが心配になったので、友人5人と朝早く、
歩いて館山へ1日分の握り飯と白米少量を持って出発した。
私の町は地盤がいいので、一、二軒の倒壊家屋が
あっただけだったが、両隣の村はひどかった。
北条町の方へ近づくに従って建っている家が少なくなって来た。
北条、館山両町にいたっては全家屋が崩壊して、
残っている家は二軒だけだった。道路上には大きい亀裂があって、
歩くのに大変だった。
和田町から館山湾の桟橋まで約18粁(キロメートル)あったが、
4時間ぐらいで着いて東京行きの切符を買った。・・・ 」(~p69)
うん。余震に関係しそうな箇所は、もうすこし注意して
『安房震災誌』などからも引用をしていきたいと思います。
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