添田啞蝉坊・知道著作集の別巻『流行歌明治大正史』(刀水書房・昭和57年)
をひらき、第18章「大震災 大正末期」をみることに。
大正11年の末から歌われ出した「船頭小唄」(野口雨情作・中山晋平曲)
の引用からはじまっておりました。せっかくなので歌詞をすこし引用。
三番までありました。一番のはじめの2行は
己は河原の 枯れ芒
同じお前も 枯れ芒
二番は全4行を引用。
死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何変ろ
己もお前も 利根川の
舟の船頭で 暮さうよ
三番の最後の2行
わたしゃこれから 利根川の
舟の船頭で 暮すのよ
この歌詞を引用した少しあとにこうあります。
「 民衆がこの唄をうたってゐると俄然、12年9月1日、
関東地方はもくもくと動きだした。未曽有の災害はここに来た。
死者20万、損害50億と算せられた。
東京は跡形もなく、赤い野原と化した。・・・・
被服廠の惨、上野の山の3日間の絶食、鮮人騒ぎ、流言、戒厳令。
船頭小唄。あんな亡国的な唄が流行ったからだ、
と識者なるものが流行歌を呪った。 」(~p358)
その次に「大震災の歌」(啞蝉坊作)と「復興節」(添田さつき作)が
引用されてゆきます。
一読「大震災の歌」は歌詞のリアルが、状況を活写しており、
平和な現在の暮らしからだと息苦しさまで感じられてきます。
それに比して「復興節」の歌詞は、苦難を笑いにかえる活力
へと重点がおかれている気がしてきます。
ここには、私の感想よりも、まずは「大震災の歌」を適宜引用。
ああ禍や禍や
とはじまります。途中からすこし続けて引用してゆきます。
平和に馴れし人の子の
蒼ざめし顔血走る眼
あれよ地震と騒ぐ間に
起る火災は此處彼處
爆音遠く又近く
燃え拡がりて天を焼き
忽ち現ず修羅の巷
阿鼻叫喚の生地獄
かくてもあはれ人の子の
慾恐しやあさましや
行李よつづらよ箪笥よと
車に積んで逃げ迷ひ
己が命をむざむざと
落す焼死(やけじに)狂ひ死
親は子を呼び子は親を
呼ぶや火の中水の中
夫はいづこ妻いづこ
・・・・・・・
生き残りたる人とても
食ふに食料(もの)なく水もなく
着のみ着のまま野宿して
生きたそらなき幾昼夜
命こそあれ無一物
親に夫に死なれては
生甲斐のなき身の上と
泣く母親の傍らに
頑是なき子が炊出しの
むすびとパンにありついて
俄かに勇みニツコリと
笑ふも哀れの極みなり
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
はい。引用はこれくらいにして、最後はやはり「復興節」その一番。
家は焼けても江戸ッ子の
意気は消えない見ておくれ アラマ オヤマ
忽ち並んだバラツクに
夜は寝ながらお月様眺めて エーゾ エーゾ
帝都復興 エーゾ エーゾ
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