以前に、『人生処方箋詩集』とかいう題の文庫をひらいたことがあります。
挙げられた詩は思い出せないけれど、題名には惹かれるものがありました。
こういうときは、この詩を処方するという、言葉の処方箋。
鶴見俊輔に「如是閑の見かた」という文がありました。
長谷川如是閑のことを書いた文で、そのなかに本の読み方を
指摘した箇所がありました。
「 本を読んで記憶することに、重きをおかず、
むしろ失念術の修業を日常生活で実行した。
弓をいることを思いうかべることが、
失念するために役だったそうだが、
寝る前に漢籍からぬきがきをすることも数年したそうで、
『論語』がもっとも多く、『老子』もあり、
佐藤一斎『言志録』もあった。
もっとも気のめいった時に読むのが『老子』であったという。」
( p393 「長谷川如是閑集第一巻」岩波書店 )
ここなど処方箋でいえば、『もっとも気のめいった時に読む』本。
そういえば、福永光司「荘子内篇」朝日文庫のあとがきが思い浮かぶ。
戦場にもっていた本(万葉集・死に至る病・パイドン・荘子)を語る箇所。
「 戦場の炸裂する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、
私の底浅い理解とともに、これらの叡智と抒情とを、
空しい活字の羅列に引き戻してしまった。
私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、
ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、
その逞しい悟達のなかで励ました。明日知れぬ
戦場の生活で、『荘子』は私の慰めの書であったのである。」
( p341~342 )
どうやら、処方箋の薬箱(本棚)の常備薬に、老荘思想は欠かせなそうです。
さてっと、興膳宏氏の現代語訳「荘子内篇」は、
さらさらと読めたのですが、さらさらと忘れてしまう。
うん。ここは、
福永光司・興膳宏訳「荘子内篇」(ちくま学芸文庫)
福永光司「荘子内篇」(中国古典選12・朝日文庫)
この2冊。並べて読んでみれば効果がありそうな気がしてきます。
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