NHK朝ドラに、沖縄の豆腐屋さんが出てました。
豆腐屋さんといえば、思い出すのは、小さい頃、
家の道路を隔てた斜め横に豆腐屋さんがあった。
小学校へゆく途中にも別の豆腐屋さんがあった。
途中の豆腐屋さんは、店の上に大きく看板があり、
そこには、豆腐じゃなくて、豆富屋と書かれてた。
家のそばの豆腐屋さんは、自転車の後ろ木箱で、
ラッパを首に下げて(たしかそうだったような)
売りに行っていた。そこの息子さんは役場に勤め、
お爺さんおばあさんがなくなると、改装して
普通の住まいになった。豆腐屋さんといえば、
水をたっぷり湛えた中に、下に豆腐があって、
まるで生き物が呼吸しているようにもみえた。
今ではスーパーで豆腐が重ねられて並んでる。
豆腐が重なるなんてまるで思ってみなかった。
思い浮かぶ断片は、このくらいにして、
外山滋比古著「俳句的」(みすず書房・1998年)をひらく。
そこに豆腐がでてくるのでした。『放つ』と題する7ページ。
そのはじまりは
「 ある会合で話していて、ふと、日本語は
豆腐のような言葉だと言ってみた・・・ 」(p95)
「 豆腐は積み重ねがきかないが、小さく切って、
汁の中などへ『放っ』てやることができる。 」(p100)
うん。煉瓦の論理と比べたり、囲碁の布石へ言及したりしながら、
豆腐が語られてゆきます。ここに俳句が登場しております。
「 似たことが、俳句にも見られる。切れ字は言葉の惰性を捨てて、
なるべく効率の高い小さな部分を区切る方法である。・・・」(p97)
そして、映画へと言及されておりました。
「 豆腐は積み重ねがきかないが、小さく切って、
汁の中などへ『放っ』ってやることができる。
・・・・・
映画の単位をカットという。
一区切りに切られたものという意味であろう。
散らし、放つには切らなくてはならない。
俳句に切れ字を必要とすることとの符号は偶然とは思われない。
・・・・・・
日本語の文章の構造でいちじるしい特色の一つは
パラグラフの続き具合が千変万化であるということである。」(p100)
このあとに、つづくのが『座談会』なのでした。
「 日本語の段落構成は煉瓦を積むのよりも
豆腐を切って水に放つのに似ている。
そういう豆腐の論理をいとも巧みに活かして
いるのが座談会の形式で、これはまだ外国人
から注目されていないから、日本人自身も
その価値に気付いていない。・・ 」(p101)
この座談会形式の創始者、菊池寛へと言及したあとに、
「 座談会のおもしろさは論理を散らすおもしろさである。
散らしながら全体としてどこかつながっていないこともない。
豆腐の論理であり、俳諧の美学である。それが一般読者に
人気があるのは、多くの日本人に俳諧の心がある証左である。」(p102)
はい。『多くの日本人に俳諧の心がある』というところまできました。
いままでテンデンバラバラだったものが何だかつながってくるような。
はい。そんな手応えを感じられる『俳諧の心』なのでありました。
コメントありがとうございます。
はい。ありますとも、
と言いたくなります。
豆腐は豆腐の味わい。
放り方にもひと感覚、
味わう俳諧の楽しみ。
何を言ってるのやら(笑)。